『中村紘子 追悼』 歴史に名を残した天才ピアニストの華麗なる人生と功績。

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  • 最終更新日:2018年05月16日
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中村紘子

2016年7月26日、世界を照らしていた灯かりのひとつが消えました。もうすぐ2年になります。中村紘子、享年72歳。大腸がんだったそうです。

彼女の訃報に接したときはにわかに信じられませんでした。彼女が病気でしばらく入院するというニュースは知っていたので、忙しい人だからいい休養になるとプラスに思っていました。ですから突然の訃報に本当に驚きました。

今回はずっと書きたくても書けなかった中村紘子の追悼記事を書こうと思います。

残念ですが、もう彼女はいません。彼女の残した沢山の音楽、演奏、文章、言葉、テレビ番組・・・みんな素敵でした。彼女の素晴らしさをもう一度振り返ってみましょう。ようやく彼女について語れるようになった今、彼女を忘れないためにも、きちんと見返して心にしまっておきたいです。

中村紘子との出会い

ピアノの楽しさや面白さを教えてくれた彼女の人生がこんなにも早く終わりを迎えるとは・・・本当に、心から残念で仕方がありません。

初クラシックレコード

私が中学生の頃、最初に買ったクラシックのレコードが彼女の「ショパンリサイタル」だったと記憶しています。

見開きの写真がついた素敵なレコードで、表紙のモノトーンの魅惑的な彼女の瞳は魅力的で素敵でした。

どうして中村紘子のレコードを選んだのか

中学生の私はまだクラシックファンではありませんでした。当時のアイドル天地真理、浅丘めぐみらのドーナツ盤と一緒にレコード棚の端っこにショパンのLPが場違いな感じで置いてありました。

どうしてあのLPを買ったか、もう忘れてしまいましたが、おそらくピアニストは中村紘子しか知らなかったから。それと綺麗な彼女のジャケット写真にちょっと興味を持ったからだと思います。

少年の心をくすぐった迷盤?でした。

中村紘子とは

中村紘子

中村紘子は日本を代表するピアニストでした。ピアニストであったにもかかわらず、その美貌や話術の上手さからテレビの司会やゲスト、また、コマーシャルにも出ていたので、知っている方も大勢いると思います。

中村紘子の略歴

1944年7月25日:疎開先の山梨県東山梨郡(現甲州市)生まれ
1947年:「子供のための音楽教室」に入り、井口愛子に師事
1954年:レオニード・コハンスキーに師事
1954年:両親離婚、母に育てられる
1954年:全日本学生音楽コンクール小学生の部で第1位受賞
1958年:全日本学生音楽コンクール中学生の部で第1位受賞
1959年:日本音楽コンクールで第1位特賞受賞
1960年:岩城宏之指揮東京フィルハーモニー交響楽団にてデビュー
1960年:NHK交響楽団初の世界ツアーのソリストに抜擢
1961年:日本人として初めての全額奨学金を獲得してジュリアード音楽院に入学
1965年:ショパン国際ピアノコンクール第4位入賞、最年少受賞
1974年:庄司薫と結婚
1982年:チャイコフスキー国際コンクールピアノ部門審査員、これ以降様々なコンクールの審査員になる
1989年:「チャイコフスキーコンクール」で大宅壮一賞受賞
2005年:エクソン・モービル音楽賞受賞
2008年:紫綬褒章受賞
2017年7月26日:大腸がんのため永眠、旭日中受賞追贈

世界的なピアニストへ

中村紘子

彼女がいかに凄いピアニストだったか、またそれだけに留まらず、他の分野でもいかに豊かな才能が花開いたのかを我々は良く知っています。

ひとりの少女があっという間に階段を駆け上がって世界に羽ばたくピアニストになっていったのか、様々な分野で遺憾なく才能を発揮してタレント性を高めてきたのか、彼女の素晴らしさを見ていきたいと思います。

天才少女誕生

1944年疎開先の山梨県東山梨郡(現甲州市)で生まれ、東京都世田谷区等々力で育つ。本名福田紘子。3歳のときに桐朋学園音楽科の前身である「子供のための音楽教室」第1回生として通い始め、井口愛子に師事します。

同期には小澤征爾江戸京子堤剛たちがいて、ちゃんばらごっこなどをして、教師の吉田秀和らを困らせたという話は有名なエピソードです。

早くから天才少女として名をはせ、全日本学生音楽コンクールの小学生部門、中学生部門と優勝を重ねたのち、慶応義塾中等部3年在学中に、第28回日本音楽コンクールにおいて史上最年少で第1位特賞を受賞。

世界への飛躍

翌年、NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢され華やかにデビューしました。各国からの要望があったとかで、振袖姿でショパンのピアノ協奏曲1番を弾いている映像を見ましたが、とても弾きにくそうでした。

その後、ジュリアード音楽院で日本人初の全額奨学金を獲得、ロジーナ・レヴィン女史に師事します。

ピアニストとしての彼女の功績で最大のものはショパン国際ピアノコンクールの最年少入賞(第4位、21歳)です。因みにこの年の第1位はマルタ・アルゲリッチでした。

20世紀最高の音楽批評家の一人とされるハロルド・ショーンバーグ(ピューリッツァー賞受賞)が、ピアニストに関する代表的な名著『偉大なピアニストたち』の中で東洋人ピアニストとしてただ一人彼女の名を挙げ、その特色を「絢爛たる技巧」と「溢れる情感」、そして特に「ロマンティックな音楽への親和力」と、絶賛しています。彼女はショーンバーグのお気に入りのひとりでした。

 

それからの彼女は国内外3800回を超える演奏会を通じて聴衆を魅了しました。

簡単に3800回といいますが本当に凄いことです。地方公演に力を注ぎ、日本全国を回った結果でしょう。

演奏会場に行けなくても、テレビ番組を通じて中村紘子の演奏に触れたことのある人は多くいます。指揮者の小澤征爾岩城宏之、作曲家の山本直純黛敏郎らとともに、テレビ時代のクラシック音楽界のスターを演じていました。

テレビで彼女の演奏を見て、ピアニストに憧れた子供たちは数知れません。

日本へのこだわり

そして日本人として嬉しかったのは彼女が海外を拠点としないで日本に留まったこと。夫君と話し合った結果でもあったようです。彼女にとってはマイナス面が大きかったかも知れませんが、我々にとっては彼女の演奏をそれだけ多く聴くことが出来るようになった訳です。

彼女が全国を回って演奏会を開いてくれることでクラシックファンが増えました。

またテレビのバラエティ番組にもよく出ていました。CMにも出てましたし、本当にクラシックを身近にしてくれたことが、彼女の凄いところなんだと思います。

彼女に親しみをもってくれた人たちが、彼女の音楽会だから聴きに行こうと思った人は多いはずです。クラシックファンだって彼女のおかげでずいぶん増えたことでしょう。

晩年は若手ピアニストの育成、紹介の仕事にも力を入れました。浜松で国際ピアノコンクールをはじめ、多くの優秀なピアニスト達を生み出し、コンクール自体を国際的なものに育てました。

審査員としての中村紘子

1982年、チャイコフスキー国際コンクールの審査員に選ばれ、それ以来数々のコンクールの審査員の仕事を務めるようになりました。ショパン国際ピアノコンクール、ロン・ティボー国際コンクール、ヴァン・クライバーンコンクールなど10以上のコンサートの審査員をこなしています。浜松国際ピアノコンクールでは審査委員長を15年間も続けました。

これだけ著名なコンクールから毎回審査員のオファーがあったということはいかに彼女が世界的なピアニストであったか物語るものです。

他人の将来を決める大きな要素となるコンクールですから、審査にあたるにはかなりのストレスがあったはずです。

エッセイスト 中村紘子

中村紘子は物書きとしてもその才能を発揮しました。チャイコフスキー国際コンクールの審査員をやったときの感想をまとめた「チャイコフスキー・コンクール」は1989年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しました。

著作は数多く…

  • 「アルゼンチンまでもぐりたい」
  • 「ピアニストという蛮族がいる」
  • 「コンクールでお会いしましょう」
  • 「どこか古典派(クラシック)」
  • etc…

映像描写だけではなく、音楽評論やもっと大きく文明論まで発展するような幅広い知識を惜しみなく披露しています。

愛猫に対するエッセイなど気楽な話は面白おかしく読めるし、幸田延や久野久を扱った「ピアニストという蛮族がいる」ではピアニストの悲劇的な一面を捉えた文章に涙したりと、作家顔負けの出来栄えになっています。

上記の本以外にもこの人は本当はエッセイストなのではないかと思うぐらい、読み応えがあって、感心、感動させられます。

CDを聴くだけでなく、彼女の本も一度読んでみてください。ピアニスト中村紘子のイメージが少し変わりますよ。

中村紘子の挫折から復活へ

中村紘子

あの中村紘子でも大きな挫折がありました。今まで信じていたものが音を立てて崩れていく、本人に取ってとても残酷な日々だったことでしょう。

中村紘子の胸中

彼女にはいろいろな名著がありますが、4位入賞したショパン・コンクールについてはあまり多くを語っていません。

15歳で日本音楽コンクールに優勝し、N響初の海外公演のソリストに抜擢されたあと、ジュリアード音楽院に留学したところ、ロジーナ・レヴィン教授に基礎から直すように言われてショックを受けたという話です。

「それこそもうショックで無気力になって、壁を見つめて一日ボーッという感じで、ピアノにも触れないという状態が半年ほど続きましたね」とのちに彼女が語っています。

その後すぐにショパン・コンクールに出て入賞はしましたが、優勝したマルタ・アルゲリッチについてにあんなテクニックは自分には真似できない、今の自分の音楽性では表現できないと言っています。

しかし、それ以上のことは彼女は何も書いていませんし、インタビューでも語っていません。日本での先生だった井口愛子に気を遣ってその辺の事情はあまり話題にしなかったということが正解なのかもしれません。

日本のピアニスト教育への挑戦

彼女がこの問題を多く語らなかったのは、自分が日本で教わったテクニックを全否定することになることになるから。当時の日本の主流はハイフィンガー奏法というもので、3歳からずっとそれで練習してきた彼女にとって「半年ほどピアノに触れられなくなる」気持ちは察するに余りあるものだったでしょう。

彼女は、この時の経験を踏まえ、若いうちに世界で通用する奏法を身につけられるよう、1996年に浜松国際ピアノアカデミーを創設するなど、教育活動にも情熱を注ぎました。身体のメンテナンスにも気を配り、デビュー50周年では全国で80以上も公演をこなしました。

がん発病、そして・・・

2014年別の病気で手術した際、大腸がんが見つかります。一度はコンサート復帰しましたが、2016年7月26日大腸がんのため永眠しました。わがままを言って病院から自宅に戻り、72歳の誕生日を夫と二人でお祝いした翌日だったそうです。

彼女は夫からプレゼントされた指輪を握り締めて旅立ったという話が伝わっています。

追悼 中村紘子

中村紘子 追悼

中村紘子さんを偲ぶ会

「中村紘子さんを偲ぶ会」には皇后陛下から供花もあったそうです。

2016年9月17日「中村紘子さんを偲ぶ会」、ステージ正面の高台に置かれた漆黒のグランドピアノ。誰も弾くことはありません。故人をおいて弾ける者はほかにいない。とても印象的な光景です。そう彼女はもういないんです。

世界各国を舞台に活躍したピアニスト。戦後の日本で奇跡のような、気高くも豪放なピアノを鳴らし、ショパンやラフマニノフの音楽を全国津々浦々まで浸透させた功労者でもあります。ショパン弾きとして知られていますが、ショパンに限らず、とりわけラフマニノフやチャイコフスキーなどロシアのロマン派音楽で情感あふれる華麗な演奏を聴かせました。高貴なロマンチシズムの響きは、ジュリアード音楽院で師事したロジーナ・レヴィーンの教えによるものです。

残されたレコーディングアルバムはこれからも改めて聴き込まれます。中村紘子はピアニストの代名詞であり続けるでしょう。

中村紘子さん 安らかに

「上手い人は山ほどいる。大切なのは聴き手になにを伝えるか」彼女の言葉です。彼女がピアノという楽器を通して聴き手に音楽を伝えるために、毎日どれだけピアノの練習を繰り返してきたか。

手術を受けるときもピアノが弾けなくならないようにということをいつも気にしていたと聞いています。ピアニストとして生きる、毎日そのことを考え続けていた人だったのでしょう。

亡くなる前日も「モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試す」と夫君に、興奮の面持ちで語っていたといいます。

最後までピアノ演奏にこだわりを持ち続けた彼女の生き方は、私たちに多くのことを教えてくれます。

国際コンクールの審査や文筆などを通じ、後に続く世代を教える側に回っても「あしき日本的奏法の撲滅と、グローバルスタンダードへの接近」をつねに標榜し、日本のピアノ界全体の水準向上に全身全霊をささげた人でした。

スター性があって、頭が良くて、こんなにみんなに愛されたピアニストはこれからも出てこないでしょう。

謹んでご冥福をお祈りします。

中村紘子を惜しむ音楽界からの声

2016年7月、訃報のニュースが流れると各界からお悔やみの言葉が寄せられました。交友の広さを物語るものでした。

指揮者 外山雄三氏

「オーケストラと練習していてあなたの表情が一瞬、キッとなることが時々ありました。潔癖なあなたの感性が許せないことが起きた瞬間だったに違いないけれど、すぐに思い直して優しい表情に戻るのをしばしば見ました」

音楽評論家 萩谷由紀子氏

「ものすごく記憶力がいい人で、会った相手のことは人柄や性格を含めよく覚えていた。必ず手書きの文章で返事をくれる人だった」

 

指揮者 大友直人氏

「クラシック音楽界で、実力、知名度ともに一時代を築き、足跡を残されたという意味で、小澤征爾さんと並ぶ方だった」

チェリスト 堤剛氏

「心に穴があいた感じ。『子供のための音楽教室』で一緒に学んだ小学生時代からの友人で、チャンバラごっこなどをして遊ぶときにもリーダーシップを発揮していた。そして、ピアノだけでなく、音楽全般の魅力を広く伝えるリーダーになった。音楽を通じて社会貢献したいとも考えて、それが教育という形で実を結んだ。その精神を引き継ぐことが供養になると思っています」

ピアニスト、文筆家 青柳いづみこ氏

「72歳のお誕生日翌日の旅立ちはあまりに早い。4月にミューザ川崎で弾かれたモーツァルトの24番の協奏曲は、一切の夾雑物を排した名演だったときく。演奏家として文筆家として、円熟の境地にはいった中村紘子さんをもっ と聴き、もっと読みたかった。」

ワルシャワのショパン協会からの訃報

「優れたショパン解釈のできる日本人ピアニストのひとりで、第7回ショパンコンクールの4位入賞者、のちに審査員もつとめた。日本でのショパン音楽の普及に相当なる寄与」と紹介。

中村紘子を惜しむ政界からの声

中村さんには政官界や経済界のファンが多くいました。

衆議院議員の細田博之氏

「日本国にとっても世界の芸術にとっても大変な損失である」

元文化庁長官の近藤誠一氏

「私がワシントンの大使館にいた時に初めてお会いし、ショパンの『バラード第1番』を聴いてとても感動したのを覚えている」

「その後、中村さんのホームコンサートに何度も招かれて、家内とピアノ連弾をやって笑われたりした。ピアニストとしては超一流、人柄も素晴らしかった」

その他の分野の人々からの追悼の声

日本文学研究者のドナルド・キーン氏

「中村さんは文章も優れていて、エッセーをたくさん書かれて読まれています」

夫・庄司薫(本名・福田章二)氏

「(25日)の誕生日を迎える日も、モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試すのだと言って興奮していました。僕もそれを聞きたいと熱望していました。残念です」

2016年7月30日の朝日新聞、天声人語

「72年の生涯だった。勝ち気で前向きでしぶとくて、常に周囲を励まし気品があって、恐ろしく楽天的かつ芯のしっかりした大輪の花のようなピアニストだった。」

中村紘子のちょっとしたエピソード

彼女は大ピアニストでしたが、そんな振る舞いは全く感じさせず、本当に庶民的な人でした。あんな魅力的な人でしたからクラシックに興味が無い人でも惹かれる人が多かったのでしょう。

中村紘子の結婚話

これも有名な話で知っている人も多いかとは思いますが、一応書いておきます。

中村紘子の夫君は作家の庄司薫です。「赤頭巾ちゃん、気をつけて」で芥川賞を受賞されています。今の若い人たちは読んでいるのでしょうか。我々世代は高校か大学生ぐらいには彼の4部作を夢中になって読んだものです。

その「赤頭巾ちゃん、気をつけて」の中に『中村紘子さんみたいな若くて素敵な女の先生について(中略)優雅にショパンなどを弾きながら暮らそうかなんて思ったりもするわけだ』との1文が出てきます。これを彼女が友人から聞いてその本を手に取り、庄司薫の写真を見た瞬間、「私、この人と結婚する」と直感したそうです。

彼女の方からいろいろな伝をたどり、庄司薫に会いに行き、交際を始め、ついに5年後二人は結婚します。彼女の積極性がよく出ている話で、微笑しながらこのエッセーを読みました。この話はどこかの新聞社が載せた物で、のちに彼女の何かの本にまとめられているはずです。

料理の上手なピアニスト

今でもよく覚えているのが、テレビ番組でピアノを弾きながらスクランブルエッグを作ったこと。

グランドピアノの鍵盤の横にガスコンロを置いて、左手でピアノを弾きながら、卵を割ってフライパンに入れ、卵をかき混ぜて、調味料を振り完成するところまでを、ワンカットで流していました。

ピアノの音楽は一度も止まらずに最後まで弾いていました。曲はショパンの「子犬のマーチ」だったような?。ピアニストって凄いなと感心したのはこのときが初めてでした。

天下の中村紘子がこんなことしてくれるのも、彼女の人柄が出ていて感激した思い出があります。

猫好きピアニスト

今は廃刊になっているかどうか分かりませんが「私の猫ものがたり」は猫好きの私にとっては楽しめた1冊でした。猫好きな有名人たちの猫に対するラブレターのような本です。彼女が高層マンションに住んでいるため、定期的に猫にリードを付けて散歩をさせるといつも狸に間違えられる話とか、猫好きには笑える話でした。

ピアニスト中村紘子を振り返って

大好きだった中村紘子について私なりにまとめてみました。日本の音楽界にとって如何に大切な人を失ったのか、改めて振り返って彼女の偉大さを実感しています。

日本のピアノ界のために汗を流し、隠し事無く事実を話し、音楽のために人生を捧げた人でした。本当に尊敬に値する人でした。

私達はこれからも彼女を忘れません。ずっとずっと彼女の音楽を聴き続けて行くでしょう。そして彼女の才能にその都度驚くことと思います。

中村紘子さん、ありがとうございました。

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