ベートーヴェン波乱の生涯!作曲家として苦悩し、躍進し続けた男の人生とは

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  • 最終更新日:2018年11月09日
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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)。世界中に知られているドイツの作曲家です。山に例えるならばクラシック界の「エベレスト」!!作曲家としてこの人を凌ぐ人は未だ現れません。

未だ現れないということは今後もこの作曲者を越える人は出て来ないと言うことです。唯一無二の作曲家ベートーヴェン、その苦難に溢れた生涯を詳しく調べて行きたいと思います。

目次

(※)年齢についてはその事項が発生したときの年齢を載せています。12月生まれという事もあり、満年齢と違う事もあります。

第1章:幼少期

ベートーベンの幼少期

ベートーヴェンの誕生から子供の頃の彼の姿を追ってみましょう。果たして最初から音楽の天才だったのでしょうか?

第1章では家族が皆ベートーヴェンのため、主人公を会えてルートヴィヒと書きます。

誕生

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンは1770年12月16日前後に、ドイツのボンでこの世に生を受けました。前後にというのは教会での洗礼を受けた日付が12月17日と記録されていますが、誕生日についての記録がないため当時の習慣に基づいて、12月16日だろうと多くの研究者は考えています。

父はヨハンといい、宮廷の歌手であり、母は宮廷料理人の娘であるマリア・マグダレーナの長男として生を受け、ルートヴィヒという名前は、祖父からもらいました。

祖父はボンのお城の王様召抱えの合唱団やオーケストラの指揮をする楽長で、初孫のルートヴィヒをとてもかわいがっていたようです。

父親も、宮廷合唱団の歌手でしたから 音楽が日常的な生活環境にありました。話せないころから聞いた音楽はすぐに口ずさんでしまったようで、祖父も父親も早くからルートヴィヒの音楽的才能を見抜いていた様です

祖父の死と生活の困窮

父のヨハンは歌手として大成することなく飲んだくれになり、家計を祖父の稼ぎに頼っていました。ルートヴィヒが幼少の頃(3歳)に祖父がこの世を去り、弟も2人生まれ、生活は困窮するばかりとなりました。

父ヨハンの酒癖は日に日に悪化をたどり、母に対して暴力を振るったりと、生活は益々困窮の度合いを深めていきました。

そんな中でもルートヴィヒはチェンバロが弾けるようになり、一度聴いただけでも、その曲が弾けるようにまでなっていました。まだ4歳の頃です。

父のスパルタ教育

そんなルートヴィヒの才能を見た父親は、かつてのモーツァルトのように息子で一儲けを考えます。モーツァルトのように稼がせるため、息子にチェンバロとヴァイオリンを本格的に教え始めます。

まだ年端も行かぬ息子に毎日2,3時間しごきのような練習をさせました。見かねた母親が止めに入ると、酔っ払っているため暴力を振るい、自分のやりたいように物事を進めました。

ルートヴィヒも母が暴力を振るわれるからと歯を食いしばって自分でも必死になって勉強しました。今で言うところのスパルタ教育です。

そうして厳しい練習を積み重ねるうちに 実力はぐんぐん身についていきました。何よりもルートヴィヒを励まし、支えてくれたのは母親で、とても優しい人でした。酒乱の夫ゆえに働きずめで大変だった中でも、常にやさしく夫には逆らわず黙々と働き続けたようです。

そんな母親に励まされて、8歳の頃にはケルンの演奏会に出てチェンバロを演奏するほどになりました。モーツァルトの様にはなれませんでしたが、天才児ルートヴィヒの名は世に知れ渡りました。これ以後は、彼が家計の助けをする事になります。

音楽家としての第1歩

父親には教えきれなくなり、9歳過ぎから宮廷楽長のネーフェ先生にチェンバロやオルガンを習うようになりました。ネーフェ先生は、ドイツ以外のイタリアやフランスの作曲家の楽譜も所持していたので、広く世界中の音楽を知ることができました。

また、バッハの曲を徹底的に教えてくれたので 音楽の基礎となる勉強がしっかりとできるようになりました。

14歳からは宮廷オルガリストになり、同名の祖父ルートヴィヒのように、周りからも一目置かれる存在となりました。また、この事によってお金が稼げるようになり、父に代わり一家の家計を一手に引き受けるようになりました。

第2章:青年期

ベートーベンの青年期

父親のスパルタ教育と宮廷楽長ネーフェのおかげで音楽の才能を開花させたベートーヴェンは、更に自分の才能を伸ばしていきます。

モーツァルトとの出会い

1787年、16歳のベートーベンはウィーンを訪れ、憧れのモーツァルトと対面を果たしています。 この時、モーツァルトは30歳。ベートーベンはモーツァルトに弟子入りを申し込みましたが、母親であるマリアの訃報によって、故郷へと帰ることとなります。残念ながら母は病死する事になります。

本当に残念だと思うのがこの時ベートーヴェンがモーツァルトの弟子になっていたら2人の生涯も大分変わった生涯になっていた事でしょう。2人の音楽の大天才の才能が混ざり合っていたら、お互いにまた違った道を歩いていたでしょう。歴史に「もしも」はありませんが、モーツァルトがOKしていたのでどうなっていたか本当に残念です。

モーツァルトは残念ながらベートーヴェンとの出会いの4年後に亡くなります。

ハイドンの弟子になる

1790年(19歳)、たまたまボンに立ち寄ったハイドンと会う機会があり、弟子入りを許されます。1792年にハイドンの弟子になるためにウィーンに旅立ちます。この時のベートーヴェンの気持ちはいかばかりであったでしょうか。我々にもこのときの喜びの深さが伝わってくるようです。ウィーンの都会へ行ってハイドンの弟子になる・・・内に秘めた情熱が沸騰する様がわかってきます。

弟2人とウィーンに行ったベートーヴェンはハイドンに弟子入りし、本格的に音楽を学び、1794年、はじめて『ピアノ三重奏曲』を作曲します。偉大なる作曲家としての第1歩です。彼が23歳の時です。

音楽家としての旅立ち

1795年(24歳)、『ピアノ協奏曲第1番』『ピアノ協奏曲第2番』が完成(順番は第2番が先)。ベートーヴェンは慈善コンサートで自作のピアノ協奏曲を演奏し、これが大きな話題を呼びました。さらに即興演奏の名手として人々を魅了。青年ベートーヴェンは作曲家としてより、天才ピアニストとして音楽好きのウィーン貴族たちから喝采を浴びました。一躍社交界の花形となり、楽譜出版社からの収入も増えていきます。

この時期がベートーヴェンの中で最も充実していた時期であったと思われます。まだ耳の疾患もなく、自分の腕で名声を確立した花丸の時期だったでしょう。

社交界デビューし、パトロンも多くなり、本当に幸せの絶頂期であった時期です。この頃のベートーヴェンは身だしなみに気を遣い、おしゃれだった様です。

第3章:予期せぬ病気

ベートーベンの病気

音楽家として確固とした地位を築き、充実した日々を送っていたベートーヴェンに予期せぬ病魔が襲ってきます。

耳の疾病

名声を得て得意絶頂のベートーヴェンでしたが、人生が突如暗転する自体が起こります。1798年(27歳)、聴覚障害の最初の兆候が現れると次第に症状が悪化していきました。音楽家にとって聴覚を失うことは致命的!!他人にバレないようにするため、交際を避け家に引きこもるようになりました。同年、『ピアノソナタ第8番「悲愴」』を作曲。ベートーヴェンのピアノソナタの中でも初期を代表する傑作として知られます。

この時期にこのようなピアノソナタを作曲する事のできる意志の強さは並大抵の物ではありません。『悲愴』というタイトルがまた意味深です。ベートーヴェンが付けたあだ名ではありませんが、出版社がこのタイトルにする事に対して、反対もしなかったところを見ると、色々な事が頭を巡ります。

現在では、ベートーベンの難聴の原因は「耳硬化症」であったのではないかと言われています。鼓膜からの振動を内耳に伝える耳小骨の骨細胞が増殖・硬化することで音が伝わりにくくなる症状です。

この難聴を自覚してからのベートーベンの症状は日に日に進行していきます。30歳になるころにはもうほとんど聞こえなくなっていたようです。

疾患を自覚してからのベートーヴェン

1800年(29歳)、明るく活気に満ちた『交響曲第1番』を書き上げます。まだベートーヴェンの個性は薄くハイドンに近い物といわれています。

1801年(30歳)、弟子でイタリアの伯爵令嬢ジュリエッタ・グイチャルディ(16歳)に捧げた『ピアノソナタ第14番「月光」』を作曲。ベートーヴェンは彼女に恋し、身分の差に苦しみ、結局振られてしまいます。

耳の疾病の中、これだけの作曲意欲があり、恋愛感情も衰えていないというところがベートーヴェンたる所以なのでしょうね。

第4章:ハイリゲンシュタットの遺書

遺書を書いたベートーベン

1802年(31歳)、転地療養のため夏はウィーン郊外の静かなハイリゲンシュタットで過ごしていたベートーヴェン。この頃、難聴とジュリエッタ・グイチャルディとの恋愛の破綻で苦しんでいました。

「ハイリゲンシュタットの遺書」を記す

「ハイリゲンシュタットの遺書」は、この時に書かれました。1802年10月6日と10月10日付の2通の遺書を指していいます。しかし、2通の遺書は実際、宛先人には届けられなかった遺書でした(6日付の遺書は宛先人名無し)。だがこれを書いたことによって精神的 な解決を見い出したと思われれます。

『ハイリゲンシュタットの遺書』抜粋(10月10日のもの)

わが弟カルルと***ベートーヴェンのために。 ハイリゲンシュタット[1802年10月10日]

 おお! おまえたち、おまえたちは僕を人に敵意を持ち強情張りで、人間嫌いだと思いこみ、またひとにそう言いふらし、僕にたいするあつかいがどんなに不当であったことか。おまえたちに僕がそんな人間に見えるという、そのかくれた原因をおまえたちは知らぬのだ。‥‥‥(略)‥‥‥

 すべてに超越せんとしたが、おお、耳が悪いという二重にも悲しい現実のため、何と無惨にもはね返されたことか。しかし、ひとにむかって、わたしはつんぼです、もっと大きな声で話して下さい、叫んで下さいとは、言えたものではない。ああ、僕にとっては、ほかの人々よりももっと完全であるべき一つの感官、かっては申し分のない完全さで僕がもっていた感官、これこそは、僕と同じ専門の仕事に従っている、わずかな少数の人々のみが享有しており、あるいはかって享有していたぐらいに完璧なものであったそんな感官の欠陥を、そう言っても人に知らせるなどと、どうしてできようか。―― おお、僕にはそれはできない。だから僕が喜んでおまえたちの仲間に入るべき場合にさえ、僕が避けているのを見てゆるしてくれ。‥‥‥(略)‥‥‥

 僕のそばに立っている者が、遠くの横笛の音をきいているのに、僕には何も聞こえないとき、まただれかが牧人の歌っているのを聞いているのに、それも僕には聞こえないとき、それは何たる屈辱であったろう。たびたびこうしたことがあったので、僕はほとんど絶望し、もう少しのところで自殺せんとした。―― ただ彼女が、―― 芸術が―― 僕をひきとどめた。ああ、僕には自分に課せられていると感ぜられる創造を、全部し遂げずにこの世を去ることは、不可能だと考えられた。‥‥‥(略)‥‥‥

 ―― 忍耐!―― それだ、それを今やわが導き手にえらばなければならない。僕にはそれがある。‥‥‥(略)‥‥‥―― おまえたち、わが弟カルルと***よ、僕の死後ただちに、シュミット教授がなお健在ならば、僕の名で病歴を書いてもらい、ここに書いたものにその病歴書をつけてくれよ。そうすれば、死後に少なくとも世の人々と僕は、できるだけ和解し得るだろう。―― 今また僕はおまえたち二人を、わずかな財産(財産といえるとすればだが)の相続者とここに宣言する。誠心をもってわけ、仲よく互いにたすけあってくれ。‥‥‥(略)‥‥‥

 おまえたちの子供に徳をすすめよ。徳のみが幸福をもたらすことができるのだ。金ではない。僕は経験からこう言うのだ。逆境の中にあって僕をはげましたものこそ徳であった。僕が自殺によって生涯を終わらなかったことは、わが芸術とならんで徳に負うているのだ。‥‥‥(略)‥‥‥

 ―― さようなら、死後僕を忘れてくれるな。僕は生前おまえたちが幸福になるようにしばしば考えをめぐらして来た。だからおまえたちにこう望む資格があるのだ。―― そうあってくれ。――

小松雄一郎訳「ベートーヴェン書簡集」/岩波文庫p59-62より

宛名なしの1通目も同じような内容です。ベートーヴェン自身が言っているように、「芸術」が死を引き止めました。まだ全て成し遂げられていないので、この世を去ることは不可能だと。遺書とは言っていますが、今後の生き方についての決意表明といった物だったと思われます。

遺書を書いた後のベートーヴェン

何かの運命で聴覚か視覚を失わなければならないとすれば、しかもどちらかを選ぶことが出来るとすればどっちを選ぶでしょうか?多分、音楽家ベートヴェンには耳が重要と考えるでしょう。幸運な事にベートーヴェンは作曲家でした。目が見えなければ何も書けなかった事でしょう。だからベートーヴェンにはこれでもよかったかもしれません。不幸中の幸いといった状態でしょうか。

聴覚の衰えが始まってからベートーヴェンはますます立派な作品を書き始めます。でもベートーヴェンにとって大変な苦しみであったことはわかります。でもそれを受け入れてすべての点で大きく成熟していったと考えられます。

この遺書を書いた場所、ハイリゲンシュタットはウィーンの郊外にあります。ここで耳の治療の通院にも便利でよく滞在しました。ここで遺書を書いた同じ年に『交響曲第2番』『ピアノ協奏曲第3番』『ロマンス』などを完成しました。驚くべきことですがこれらの作品には、おだやかで希望にあふれた気迫がみられる作品となっています。

第5章:傑作の森

傑作を生み出すベートーベン

全ての不幸を受け止めたベートーヴェンはロマン・ロランが言うところの「傑作の森」に足を踏み入れます。

『英雄』の誕生

ベートーヴェンは「ハイリゲンシュタットの遺書」を音楽にしたような作品をどんどん生み出していきます。それは『交響曲第3番』から始まります。この交響曲は今までのハイドン、モーツァルトとはまるで違う、伝統を打ち破る大傑作でした

第1楽章だけでも20分近く演奏する交響曲なんて、当時の人には考えられない音楽だったことでしょう。ましてや全曲が50分も掛かる曲であって、葬送行進曲やスケルツォなど、当時としては前衛的な音楽だったことでしょう。

これも有名な話ですが、革命のために平民出身のナポレオンが活躍している姿に感動を受けて『英雄』とあだ名を付けたのはベートーヴェン自身でした。後に皇帝に即位した知らせを聞くや否や怒りの余り、楽譜の表紙に書かれていた「ある英雄のために」という文章をペンでぐちゃぐちゃに消し去ったという逸話は有名ですし、その表紙も現在でも残っています。

話がそれましたが、この『英雄』の誕生は新しい時代を切り開く、切り込み隊長的役割を果たした事は確かな事です。

新しいピアノ

『英雄』の作曲に取り掛かっていた1803年8月に有名なピアノ制作者エラールからグランド・ピアノが届けられました。この大型の広い音域、完璧なペダル装置をもつ新型ピアノにより、『ピアノ・ソナタ第21番「ヴァルトシュタイン」』『ピアノ・ソナタ第23番「熱情」』(1805年)が作曲されました。この新型ピアノの存在なくしては考えられないことでした。

ベートーヴェンは耳が聞こえなくなったのでは?と皆さん疑問に思うかもしれませんが、この頃のベートーヴェンは会話の声は聞こえませんでしたが、ピアノなどの高音は聞こえていたようです。

こうして楽器の進歩もベートーヴェンの味方をしてくれています。この当時のベートーヴェンはオペラ『レオノーレ』の失敗意外は全てが順調に進んでいきます。

新しい名曲たちの誕生

「ハイリゲンシュタットの遺書」以降のベートーヴェンの飛躍的活躍は目を見張る物があります。年代順にその活躍振りを追ってみます。

1806年(35歳):ベートーヴェンの内省的で情感のこもった作品群はさらに進化します。『交響曲第4番』『ピアノ協奏曲第4番』作曲。『ピアノソナタ第23番「熱情」』やブラームス、メンデルスゾーンの曲と共に3大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれる『ヴァイオリン協奏曲』作曲。弦楽四重奏曲にもラズモフスキー3部作の名曲を作曲します。

1808年(38歳)(誕生日後なので満年齢表記):1808年12月22日、『交響曲第5番「運命」』『交響曲第6番「田園」』が同日にウィーンで初演されました。『英雄』や『運命』で描かれた「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という姿勢がベートーヴェン作品の基軸となります。ベートーヴェンは『運命』で音楽史上初めて交響曲にトロンボーンやピッコロを導入し、後の作曲家に受け継がれていきます。

1809年(38歳):『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』作曲。「皇帝」はベートーヴェンがつけたあだ名ではありません。後世の音楽ファンが「ピアノ協奏曲の皇帝的存在」と讃えたものです。

1810年(39歳):ピアノ小品『エリーゼのために』作曲。ベートーヴェンが愛したテレーゼ・マルファッティに捧げられました。これも悲恋に終わりました。ベートーヴェンって惚れっぽい人だったんですね。その上振られてばかり。悲しいな。

1811年(40歳):『ピアノ三重奏曲第7番「大公」』。優雅で気品のある当曲は、ベートーヴェンを最後まで金銭的に援助し続けたパトロン兼弟子のルドルフ大公に捧げられました。

1812年(41歳):この年に書かれ翌年初演された『交響曲第7番』はベートーヴェンの交響曲の中で最もリズミカルであり、後年ワーグナーは「舞踏の聖化」と讃えました。『交響曲第8番』作曲。

1813年(42歳):交響曲『ウェリントンの勝利』を発表。本作はフランス民謡をイギリス国歌が覆す(仏敗北)という分かりやすさでウィーン市民から絶大な人気を集めました。現在は殆ど演奏されませんが、ベートーヴェンにとって生前最大のヒットとなりました。

1814年(43歳):歌劇『レオノーレ』が3回とも失敗を重ねていましたが、『フィデリオ』と名を変え、改作、発表し、ようやく人気のオペラとなりました。ベートーヴェンのオペラは生涯この1作のみです。

1804年に『交響曲第3番「英雄」』を完成させたのを皮切りに、10年間に6つの交響曲の他、ピアノやヴァイオリンの優れた協奏曲を次々と作曲しました。この10年間は後世の音楽愛好家から「英雄の時代」と呼ばれ、作家ロマン・ロランは特に1806~08年を「傑作の森」と呼びました。

第6章:10年間の苦悩の時期

ベートーベンの苦悩

「傑作の森」の後ベートーヴェンには耳の疾患意外にも難題が振りかかってきます。これからの10年はベートーヴェンにとって不遇の時期になります。

弟カールの死

1815年(48歳)の時に弟のカールが亡くなります。弟の嫁と不仲だったベートーヴェンは甥のカール(父と同名)の養育権を巡り、義妹と争います。なかなか両者とも折り合わず、ついに裁判で決着させることになります。

この出来事が晩年にまで渡ってベートーヴェンの日常生活及び創作意欲に対して苦しめる元となります

甥カールの問題

この裁判は5年間も続き、有力パトロンのルドルフ大公の仲介もあって、ようやく甥っ子の養育権を勝ち取り後見人となりましたが、14歳という思春期になっていたカールはベートーヴェンと激しく衝突しました。その後非行に走ったりベートーヴェンの苦悩の種となりました。

癇癪持ちだったベートーヴェンはますます癇癪が酷くなり、また身だしなみにも全く無頓着になって他人から変人扱いされるようになっていきました。この甥の問題はベートーヴェンが亡くなるまで続き、どれほどベートーヴェンの創作意欲を削いだか計り知れません。

事実、「傑作の森」とまで言われた10年間の数々の傑作に対し、その後の10年間はほんの一握りの名作しか生み出されなくなっています

その問題だけではなく、全く聞こえなくなった耳の疾患と自身の健康状態の悪化によりますます仕事の時間が減り、もがき続けながら日々暮らしていたようでした。

最悪の日記

その頃の日記が面白いので少し記述して見ます。

「4月17日、コックを雇う。5月16日(わずか1ヶ月後)コックを首にする。5月30日、家政婦を雇う。7月1日、新しいコックを雇う。7月28日、コック逃げる。8月28日、家政婦辞める。9月9日、お手伝いを雇う。10月22日、お手伝い辞める。12月12日、コックを雇う。12月18日(たった6日後)コック辞める」。癇癪で、わがままなベートーヴェンの下ではなかなか使用人も長く勤められなかったということでしょう。

こんな日記が延々と続きます。創作に対する意欲だってこれでは沸きませんよね。

第7章:晩年の作品群

ベートーベンと第九

ベートーヴェンの精神は耳が聞こえない事から孤独となり変化していったと思われます。晩年の作品はそれを物語るように、思想家的、哲学者的要素を持ち始めます

『交響曲第9番「合唱付き」』

1824年(53歳)、5月7日にウィーンで『交響曲第9番』の初演が行われました。交響曲第8番から10年も時が経っていました。ベートーヴェンは最初、『第9』初演をベルリンで行おうとしました。この動きを知ったウィーンの文化人は「どうかウィーンで初演を!」と連名の嘆願書を作成しベートーヴェンを感動させたそうです。嘆願書には「『ウェリントンの勝利』の栄光を今一度」という文言が添えられてありました。

自由思想の持ち主であったベートーヴェンは権力者から要注意人物とされていました。そんな作曲家のコンサートにもかかわらず、初演には大勢のウィーン市民が足を運びました。

ベートーヴェンはボンにいる頃からシラーの「歓喜に寄す」の詩に曲を付けたいと思っていました。彼は初めて4人の独唱者と合唱を使って、この詩を交響曲に用います。当時とすれば前代未聞の事です。

実際に『交響曲第9番ニ短調「合唱付き」』の第4楽章の歌詞に織り込むにあたって、シラーの詩を3分の1ほどの長さにしています。冒頭にバリトン歌手が独唱で歌う「おお友よ、このような音ではなく・・・」は、ベートーヴェンが自分で考えたものであり、シラーの原詩にはありません。

『ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付き」』の4楽章に使った詩の内容

「歓喜に寄せて」

おお友よ、このような旋律ではない!
もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを
(以上3行はベートーヴェン作詞)

歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高なる者(歓喜)よ、汝の聖所に入る

汝が魔力は再び結び合わせる
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる
汝の柔らかな翼が留まる所で

ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
自身の歓喜の声を合わせよ

そうだ、地珠上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

すべての存在は
自然の乳房から歓喜を飲み
すべての善人もすべての悪人も
自然がつけた薔薇の路をたどる

自然は口づけと葡萄の木と
死の試練を受けた友を与えてくれた
快楽は虫けらのような者にも与えられ
智天使ケルビムは神の前に立つ

天の壮麗な配置の中を
星々が駆け巡るように楽しげに
兄弟よ、自らの道を進め
英雄が勝利を目指すように喜ばしく

抱き合おう、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
聖なる父が住みたもうはず

ひざまずくか、諸人よ?
創造主を感じるか、世界中の者どもよ
星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住みたもう

(出展:Wikipedia)

ステージではベートーヴェン自身が指揮棒を振りましたが、聴覚の問題があるためもう1人のウムラウフという指揮者がベートーヴェンの後ろに立ち、演奏者はそちらに合わせました。

演奏が終わって聴衆から大喝采が巻き起こりますが、ベートーヴェンはそれに気づかず、失敗したと感じて振り向きませんでした。見かねてアルト歌手のウンガーが歩み寄り、ベートーヴェンの手をとって振り向かせ巨匠は魂が聴衆に届いたことを知ります。

こうして『第9』初演は成功裡のうちに終わりますが、その後、ヨーロッパ各地で何回か演奏が試みられましたが、全て失敗か微妙な評価に終わっています。評論家からは、第4楽章がその前の三つの楽章に比べて「異質」とされ、「長大すぎる」ということで演奏機会に恵まれなくなりました。

当時のオーケストラのレベルからすると、『第9』は難度が高すぎたせいもあり、後の時代のワーグナーの再演(1846年)までこの曲は忘れ去られます。ワーグナーの再演は大成功に終わり、それ以降この交響曲は傑作であるといわれるようになります。

後期ピアノ三大ソナタ

『ピアノソナタ第30番』『ピアノソナタ第31番』『ピアノソナタ第32番』の最後のピアノソナタ3曲を「後期三大ピアノソナタ」と呼びます。

上記の3曲は、ベートーヴェンのピアノソナタ32曲のうちの最後に作曲されたものであり、内容的に円熟した孤高の音楽となっています。

穏やかで、かつ厳かという感じの曲です。品の良さ。漂うにまかせて無になっていたら、ベートーヴェンが勝手に素晴らしいところに連れて行ってくれるという印象です。

本当にこの頃からベートーヴェンは自分の死を予感していたのかもしれません。

後期弦楽四重奏曲

『弦楽四重奏曲第12番』から『弦楽四重奏曲第16番』までの5曲の弦楽四重奏曲はベートーヴェン人生の最高の傑作群であり、人間として彼がもはや達観の境地に辿り付いた音楽です。

神の領域にまで踏み込んだようなその音楽はベートーヴェンの全てが詰め込まれているように思えます。

これらの音楽を聴くときは、聴くこちら側も気合を入れないと分からない音楽になっています。ベートーヴェンが辿り付いた神の領域に、聴く側にも同じ領域に近付く事を強いる音楽です。

死の前年に書かれた『弦楽四重奏曲第14番』について、これを聴いたシューベルトは「この後で我々に何が書けるというのだ?」と述べたといわれています。

第8章:ベートーヴェンの最後

ベートーベンの最後

後期弦楽四重奏曲で神の領域までに踏み込んだベートーヴェンでしたが、病状が悪化し、死への道のりを歩みだします。

甥カールの自殺

1826年(55歳)、ベートーヴェンは養育していた甥カールと将来の進路を巡って激しく対立(カールは軍人志望、ベートーヴェンは芸術家にしたかった)します。カールは伯父からの独占的な愛情に息が詰まり、ピストル自殺をはかりますが、奇跡的に一命を取り留めます。

この事件にベートーヴェンはショックを受け、すっかり気弱になってしまい、病状も悪化していきます。

ベートーヴェンの死

1826年12月、肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が悪化。何度も腹水を取り除く手術が行われましたが快方には向かいませんでした。

ベートーヴェンは1827年3月26日、肝硬変により56年の生涯を終えました。最期の言葉はラテン語で「諸君喝采したまえ、喜劇は終わった」と言ったと伝えられています。

1827年3月29日、ウィーンのヴェーリング地区墓地(1769年開設)で執り行われたベートーヴェンの葬儀に2万人もの市民(当時の人口は約25万人)が参列し、臨終の家から教会に至る道を埋めました。当時のベートーヴェンが音楽家として如何に市民に慕われていたかを象徴する出来事でした。

ベートーヴェンの遺書

遺書は死の3日前に書かれていました。

「私は今、喜んで死を受け入れます。運命は残酷でしたが、終わりのない苦しみからやっと解放されるからです。いつでも用意はできています。私は勇気をもって死を迎えます。さようなら。私が死んでも私のことを忘れないで下さい。覚えてもらうだけのことはしたと思います。どうしたら人々を幸福にできるか、ずっと考えていたのですから。さようなら」。

第9章:後世の音楽家への影響

ベートーベンの死後

ベートーヴェンの作品だけではなく、音楽感や思想、発想など後世の音楽家には多大なる影響を与えています。

音楽家の有り方

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどでした。

ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家のさきがけとなりました。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事でした。

それまで続いてきた音楽を飛躍的にレベルアップさせた事は音楽家の地位をも向上させました。この事は音楽家が職業として成り立って、独り立ちして食べていける道を開いたとも言い換えられます。

音楽への影響

音楽の表現の仕方が、ハイドンやモーツァルトとは全く別物といっていいような手法を完成させたベートーヴェン。音楽の発想法、構成の仕方から展開法までのあらゆる方法を革新的に発展させました。当然、この事は同時代の作曲家及び後世の作曲家たちに影響を与えました。

有名な作曲家を挙げれば、ワーグナー、ブラームス、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラッヘンマンにまで影響を与えています。

当然、ここに列挙していない作曲家でも多かれ少なかれの差はありますが、影響を受けていない筈がありません。ベートーヴェンはそれだけ偉大な作曲家だったのです。

第10章:年表

ベートーベンの生涯

西暦

出来事

1770

0

12月17日洗礼。誕生日は前日の16日と考えられている。

1773

3

祖父が死亡。

1774

4

この頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けた。

1778

7

3月26日ケルンで最初の演奏会。

1781

10

母とオランダへ演奏旅行に出かける。ネーフェに師事。

1784

13

宮廷のオルガン奏者になる。

1787

16

ウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく病死。

1789

18

ボン大学でシラーの詩「歓喜に寄す」を読み感動する。

1790

19

旅行中、ボンに立ち寄ったハイドンに会う。

1792

21

ハイドンへの弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。

1793

22

サリエリ、シェンクに教えを受ける。

1794

23

リヒノフスキー公邸へ寄宿。プラーハへ旅行。『ピアノ三重奏曲』を作曲、作曲家としての記念すべき第1作。『ピアノ・ソナタ第1番ヘ短調』作曲。

1795

24

3月29日ウィーンで最初の公開演奏会で作品を演奏。『ピアノ協奏曲第1番ハ長調』『ピアノ協奏曲第2番変ロ長調』作曲。

1796

25

リヒノフスキー公と共にベルリン、ドレスデン、プラーハへ旅行。

1798

27

耳の病はこの頃から彼に重い陰を落とし、しだいに深刻化していった。『ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」』作曲。

1799

28

テレーゼとヨゼフィーネにピアノを教える。

1800

29

宮廷劇場で『交響曲第1番』を自らの指揮で初演。

1801

30

『ピアノソナタ第14番「月光」』をジュリエッタに捧げる。

1802

31

『交響曲第2番』作曲。 『ピアノ・ソナタ第17番「テンペスト」』作曲。1802年作曲10月「ハイリゲンシュタットの遺書」を書く。

1803

32

『ピアノ協奏曲第3番』作曲。『ピアノソナタ第21番「ヴァルトシュタイン」』作曲。

1804

33

『交響曲第3番「英雄」』作曲。ナポレオンが皇帝に即位し『交響曲第3番「英雄」』の献呈を止める。

1805

34

『ピアノ・ソナタ第23番「熱情」』作曲

1806

35

『交響曲第4番』『ピアノ協奏曲第4番』『ヴァイオリン協奏曲』作曲。ラズモフスキー3部作『弦楽四重奏曲第7番』『弦楽四重奏曲第8番』『弦楽四重奏曲第9番』作曲。

1808

37

『交響曲第5番「運命」』『交響曲第6番「田園」』を発表。『合唱幻想曲』作曲。

1809

38

『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』作曲。

1810

39

『ピアノソナタ第26番「告別」』作曲。『エリーゼのために』作曲。

1812

41

詩人ゲーテに会う。『交響曲第7番』『交響曲第8番』を発表。テープリッツで「不滅の恋人への手紙」を書く。

1814

43

歌劇『フィデリオ』大成功をおさめる。

1816

45

甥のカールの後見人となる。『ピアノソナタ第28番』作曲。

1819

48

『ピアノソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」 』作曲。

1820

49

『ピアノソナタ第30番』作曲。甥カールの養育権裁判がようやく勝利で終わる。

1821

50

『ピアノソナタ第31番』作曲。

1822

51

『ピアノソナタ第32番』作曲。最後のピアノソナタ。

1824

53

健康状態悪化。黄疸症状が出る。『ミサ・ソレニムス』『交響曲第九番 合唱』の大成功。

1825

54

『弦楽四重奏曲第12番』作曲

1826

55

『弦楽四重奏曲第15番』を初演。『弦楽四重奏曲第13番』作曲初演。『弦楽四重奏曲第14番』作曲。『弦楽四重奏曲第16番』作曲。ベートーヴェンのまとまった作品として生涯最後の作品である。甥カール、ピストルで自殺未遂。肺炎を引き起こし、黄疸症状が現れ、病状悪化。腹水をとる第1回手術。

1827

56

3月26日多くの友人に看取られて死去。死因は肝硬変とされている。

最後に

偉大なる作曲家の生涯を簡単にみてきました。天才であり努力家だった事がモーツァルトとは大違いです。自らの運命を手繰り寄せ、より高みを目指した作曲家でした。

いつでも苦悩が付いて回りましたが、その中でベートーヴェンは強烈な忍耐力と努力を持って傑作を生み出し続けました。まさに楽聖と呼ぶに相応しい作曲家です。

彼の作品は今後も数百年と聴き継がれていくでしょう。永遠に残る曲を残してくれた大天才を前にただただ感謝するのみです。ベートーヴェンはクラシック界の金字塔であり続ける事でしょう。

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