オードリー・ヘプバーンの素顔と魅力!!絶世の美女はドイツのスパイだった事も!?

  • 投稿日:
  • 最終更新日:2018年08月25日
  • Shusa
オードリーヘプバーン

世界的大女優、そして晩年は慈善活動家としてその生涯を終えた奇跡の女優
『オードリー・ヘプバーン』!!

大女優・慈善家・絶世の美女などなど・・・彼女の魅力を一言で伝えるのは本当に難しい!今回はそんな知らぬ人なしであろう「あの!」オードリー・ヘプバーンの魅力を様々な方向から精一杯伝えていきたいと思います。

今回、筆者はこの記事を書くにあたりいつも以上に緊張しています!なぜなら、相手があの世界的大女優のオードリー・ヘプバーンだから!

緊張しながらも、何か皆様のお役に立つ情報が少しでも発信できたら嬉しい事この上ないです。ぜひ、最後までお付き合い下さい!!

オードリー・ヘプバーンとは?

オードリーヘプバーンとは

オードリー・ヘプバーン(本名:オードリー・キャスリーン・ラストン)はイギリス人でアメリカの大女優です。ハリウッド映画の黄金期に彗星のごとく現れ、数々の賞を総なめにした名女優の一人。

苦難の幼少期

オードリー・ヘプバーンは1929年5月4日ベルギーの首都ブリュッセルのイクセルで生まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごします。

幸せに暮らしていた一家ですが、父親がナチズムの信奉者となった上、子供達の子守と浮気をし、幼いオードリーやオードリーの母親をおいて家を出て行ってしまいます。

名前を変えたオードリー

オードリーは第二次世界大戦中、ドイツ軍が占領していたオランダのアーネムに住んでいた時期もありました。

この頃、オードリーは「エッダ・ファン・ヘームストラ」と名前を一時的に変えます。これは当時ドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」という名前があまりにもイギリス風である事を心配した母親のエラが自分の名前をもじって変えたものでありました。

晩年のボランティア活動へのきっかけ

そしてこの頃、オードリーは栄養失調や極度の貧血、呼吸器障害、浮腫(むくみ)に悩まされます。さらに叔父が処刑されたりという不幸に見舞われ、飢えや寒さに耐え凌ぐ生活を強いられました。

この時の戦争体験が、オードリーの晩年のユニセフなどへの募金、ボランティア活動に貢献するきっかけとなったと言われています。

そして、5才頃からオードリーはバレエを始めます。アムステルダムでバレエを習った後、単身ロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験もあります。

オードリー・ヘプバーンの出演映画

オードリー・ヘプバーンの出演映画

オードリー・ヘプバーンはまだ無名だった時代の端役を含め計27本の映画に出演しています。その活動は映画だけにとどまらず、舞台で活躍する事も度々ありました。

過酷な下積み時代

イギリスで数本の映画に出演した後、1951年にこちらはブロードウェイの舞台作品ですが「ジジ」で初の主役の座を射止めます。

映画では、初出演作は「オランダの七つの教訓」、そして「若気のいたり」「若妻物語」「素晴らしき遺産」「ラベンダー・ヒル・モブ」で端役を演じ1952年に「初恋」で初の重要な役どころを与えられます。同年「モンテカルロに行こう」では、英語版とイギリス語版の二つが製作されました。

大出世作「ローマの休日」

1953年、とうとう!あの有名な「ローマの休日」で主役のアン王女を演じる事になります。「ローマの休日」でオードリーヘプバーン演じるアン王女は、ヨーロッパ各国を表敬訪問中、公務に疲れ城を抜け出し、ひょんな事からアメリカ人新聞記者のジョーと出会います。

様々な出来事を得て二人の距離は近づいていきますが、当然身分違いの恋。アン王女は城に戻る事になりますが、あの最後の有名な台詞がいいのですよね。

それは、映画を観てのお楽しみ!ですがこの「ローマの休日」は当時まだ無名だった、オードリー・ヘプバーンの大出世作です。

ローマの休日裏話

「ローマの休日」は、アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)がアメリカ映画のGREATEST LOVE STORYを集めて行った「情熱的な映画ベスト100」において「カサブランカ」「風とともに去りぬ」「ウエスト・サイド物語」に次いで第4位に入りました。

当初、ヒロインにはエリザベス・テイラーを起用する予定でしたが、急遽監督が変更された事もあり、スクリーンテストを受けに来たオードリーの笑顔に監督が魅せられ「アン王女にはオードリーしかいない!」とヒロインに大抜擢される事となりました。

その結果、オードリーはこの作品でアカデミー賞の最優秀主演女優賞を受賞。まさにシンデレラストーリーと呼ぶべき誰もが驚く奇跡を起こしたのです。

その他の出演作品

その後も、「麗しのサブリナ」「戦争と平和」「昼下がりの情事」「パリの恋人」「ティファニーで朝食を」「シャレード」「マイ・フェア・レディ」「おしゃれ泥棒」「暗くなるまで待って」など数々の話題作に出演。数々の賞を受賞し、その名を不動のものとしたオードリー・ヘプバーン。

大人と子供が同居したようなその可愛らしさと美しさに誰もが虜となりました。

偉大なる女優オードリー

オードリーはアメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の「最も偉大な女優50選」でキャサリン・ヘプバーン、ベティ・デイヴィスに続き第3位にランクインしています。

インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしていて、本当にこれは偉大なる快挙ですよね!

オードリー・ヘプバーンの私生活

オードリーヘプバーンの私生活

オードリーは恋多き女性でもあり、数々の俳優と噂にもなりました。

あれだけの美貌ですから、世の男性が放っておく訳がありません!大女優となったオードリーの私生活は、華やかであり、また波乱万丈でもありました。

1度目の結婚

最初の結婚は、アメリカ人俳優の“メル・ファーラー”です。二人は、「ローマの休日」でオードリーが共演したグレゴリー・ペックの紹介で知り合い、ブロードウェイ作品「オンディーヌ」で共演した事をきっかけに急接近。

恋愛関係に発展し、8ヵ月後に電撃結婚します。

無類の動物好きだったオードリー

動物好きな事で有名だったオードリー。

愛犬の名前は「フェイマス」というヨークシャー・テリアで、この犬は最初の夫“メル・ファーラー”からの贈り物なんだとか。

フェイマスはオードリーと共に色々な場所・地域に行き来できるよう特別なビザを持っていたんだそうです。すごいですね!

また、映画「緑の館」で共演した小鹿を「ピピン」と名付け、自ら引き取って飼っていた時期もあったのだそうです。

映画「テイファニーで朝食を」では、猫を追い払うシーンがあるのですが、そのシーンが一番苦痛でたまらなかったと後にオードリーは語っています。本当に動物を愛してやまない性格だったのですね!

スイスで暮らした晩年も、「ミッシー」と「タビー」という犬を飼っており、オードリーと動物は切っても切れない関係の存在だったようです。

第1子の誕生と離婚

そして1960年、2度の流産を経て待望の第一子であり愛息子のショーン・ヘプバーン・ファーラーを授かります。

それからオードリーは1968年、出産後約3ヶ月で「ティファニーで朝食を」で映画界にカムバックします。

その頃俳優として下火となっていたメル・ファーラーはオードリーを自分のビジネスに利用しようとしますが、野心家としては無縁のオードリーと溝が深まっていき離婚。約14年の結婚生活にピリオドを打ちます。

2度目の結婚・出産、そして離婚

その後、1969年に9才年下の精神科医でイタリア人の“アンドレア・マリオ・ドッティ”と恋に落ち結婚。

40才で第二子であり愛息子のルカ・ドッティを出産します。しかし、夫であるアンドレアの遊び癖が直らず13年目に離婚という悲しい結末を迎えます。

最愛のパートナーとの出会い

そんなオードリーは1980年にオランダ人俳優“ロバート・ウォルダース”と出会い、1993年にオードリーがこの世を去るまで、二人は連れ添いました。

結婚しているかしていないかは大きな問題ではないと気付いた彼女は、敢えて「結婚をしない」という選択をとります。

ロバート・ウォルダースと暮らした晩年が「最良の日々だった」と後にオードリーは語っています。

オードリーのスパイ疑惑!?

オードリーヘプバーンスパイ疑惑

第二次世界大戦中の1944年頃、オードリーは名のあるバレリーナになっていました。

そして秘密裏に行なっていた公演で得たお金を反ドイツのレジスタンスに渡していたという話があります。

他にも連合軍に手紙を渡すなどの活動をしていた為、オードリーは母親と共に身を隠して暮らす生活を強いられていました。全ては生きる為。

さすがに女優としての道を進み始めてからはそのような行動は一切なかったですが、都市伝説のような本当の話です。

オードリーが人にも動物にも優しく、命を大切にする精神は全てこのような経験から基づいたものだったのかもしれませんね。

オードリー・ヘプバーンの名言

オードリーヘプバーンの名言

オードリーは数々の名言を残しています。その中でも筆者が特に心打たれた名言を3つ紹介したいと思います。

「私たちには生まれた時から愛する力が備わっています。それは筋肉と同じで、鍛えなくては衰えてしまうのです。」

「私の最大の願望は、いわゆるキャリアウーマンにならずにキャリアを築くことです。」

「愛は行動なのよ。言葉だけでは駄目なの。言葉だけですんだことなど一度だってなかったわ。」

まさに愛とスクリーンの中に生きた女性という言葉がふさわしい名言ですね!オードリーはその容姿だけでなく、美しく彩りがあり、魅力ある言葉を発する人物だったのです。

オードリー・ヘプバーンのファッション

オードリー・ヘプバーンのファッション

オードリーはその容姿端麗さからファッション界のアイコンと呼ばれ、当時のファッション業界にも大きな革命を起こしました。

そして、世の女性が憧れる永遠のファッションのお手本となる人物です。

ファッション界のアイコンとしてのオードリー

「ローマの休日」での“ヘプバーンカット”や「麗しのサブリナ」での“サブリナパンツ”は映画を観た当時の女性の中でも多大な影響力を与え、大流行します。

また、オリヴァー・ゴールド・スミスがデザインした「マンハッタン」と呼ばれる大きなサングラスもオードリーを象徴するモデルとして、大きく話題になりました。

オードリーとジバンシィ

あの有名なルイ・ヴィトンやシャネルと並ぶファッションブランド、ジバンシィをオードリーは愛してやみませんでした。

オードリーとユベール・ド・ジバンシィは長年に渡り交流があり、「麗しのサブリナ」「パリの恋人」「昼下がりの情事」「ティファニーで朝食を」「パリで一緒に」「シャレード」「おしゃれ泥棒」等映画においてのオードリーの衣装もジバンシィがデザインしたものが多岐に渡って用いられています。

ジバンシィはオードリーの生涯を通じての良き友人、そして理解者であり、オードリーはジバンシィにとって芸術の女神(ミューズ)でした。

オードリーのコンプレックス

オードリーのコンプレックス

誰もが見ても絶世の美女のオードリーですが、本人は「定期的に自分の事が大嫌いになります」などの発言からわかるように、自分自身の事を魅力ある女性だと思っていなかったようです。

その発言の意味とはどういうものだったのでしょう?

華奢な体が嫌いだったオードリー

当時はマリリン・モンローなどのグラマラスな女性が人気を博していた為、オードリーは自分の華奢な体型などにコンプレックスを抱いていたとの事。

マリリン・モンローは当時、セックス・シンボルとも呼ばれた名女優ですから、オードリーが意識するのも仕方のない事だったのかもしれません。

コンプレックスも味方にしたオードリー

四角い顔が嫌などとの発言もありますが、自分に決して傲慢にならないところがオードリーのいいところですよね!

コンプレックスをも自分の味方にしてしまうところが、オードリーの最大の魅力であり、謙虚さの表れでしょう。

ユニセフ親善大使としての晩年

ユニセフ親善大使としての晩年

オードリーの女優業としての活動は年齢と共に減っていき、晩年はそのほとんどを国際連合児童基金(ユニセフ)の仕事に捧げました。

1954年からオードリーはユニセフへの貢献を始め、1988年から1992年には、アフリカ、南米、アジアの恵まれない人達への援助活動に身を捧げています。

衣装をチャリティーオークションに!?

オードリーが映画で使用した衣装は何点かオークションに出され、何と!その落札金額は約26万ポンド(約3900万円)という何ともすごい金額で落札されたのだそうです。

そして、その収益金のうち半分がオードリー・ヘプバーン子供基金とユニセフが共同で行っている学童支援活動に寄付されました。

1992年の終わりには、ユニセフ親善大使としての活動に対して、アメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与されたオードリーなのでした。

世界的大女優の死去

世界的大女優オードリーヘプバーン死去

63才という若さで亡くなったオードリー・ヘプバーン。その早すぎる死に誰もが驚き、世界中の人が涙を流しました。

オードリーを襲った病気

1992年9月、オードリーはユニセフの親善活動で赴いていたソマリアから自宅のスイスへ戻ります。

その直後に腹痛を訴え、病院での検査結果、悪性腫瘍が虫垂や小腸へ転移していることが判明します。それは発症率100万人に1.5人と呼ばれる腹膜偽粘液腫(ふくまくぎねんえきしゅ)という病気でした。

化学療法が始まり、手術をするも、その後腸閉塞を発症し再手術。しかしその時すでに悪性腫瘍が全身に転移し、手の施しようがない状態になっていました。

そして1993年1月20日の夕刻、オードリーはスイスのトロシュナの自宅で静かに息を引き取ります。享年63才でした。

多くの人が悲しんだオードリーの死

オードリーの葬儀では「ローマの休日」で共演したグレゴリー・ペックが、オードリーが愛してやまなかったラビンド・ラナート・タゴールの詩を涙ながらに朗読。

そして、家族や友人の他に、元夫であるメル・ファーラー、アンドレア・マリオ・ドッティ、そして長年に渡り良き友人であったユベール・ド・ジバンシィやアラン・ドロン、ロジャー・ムーアら数々の著名人が参列しました。

そして、エリザベス・テイラー、オランダ王室からも献花が届きます。オードリーはトロシュナーを一望する小高い丘の墓地にひっそりと埋葬されました。

オードリーが後世に残したもの

オードリーが後世に残したもの

オードリーの死は世界中の人々に多くの影響を与えました。そして、女優としての業績とその人間性は死後も長くたくさんの人々に伝えられています。

彼女が死後に受けた賞としては、1993年のジーン・ハルト友愛賞、グラミー賞、エミー賞などがあります。

オードリーの生涯は数多くの伝記にもなり、2000年には「オードリー・ヘプバーン物語」としてテレビ映画化もされています。

オードリーは死の間際にこう語っています。「どのように言えばいいのでしょう。とにかく私の人生は幸せでした。」と。

偉大なるオードリー・ヘプバーンという女優は最後まで偉大でした。

まとめ

オードリー・ヘプバーンという偉大な女優さんについて書いてきましたが、如何でしたでしょうか?

こんなに多くの人に愛され続けている女優さんに筆者は未だ出会ったことはありません。

63才というまだまだ早過ぎる年齢の死でしたが、これからもオードリーの魅力と素晴らしさは後世に語り継がれていくでしょう。

今回、オードリー・ヘプバーンという、女優さんであり、母であり、一人の女性として懸命に生きた彼女の記事に携われた事を筆者も本当に光栄に思います。

関連記事

”映画”の記事一覧(10件)

新着記事(5件)