ゴッホがひまわりを描いた理由。53億円の値がついた奇跡の絵画が生まれた真相とは

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  • 最終更新日:2019年04月11日
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ゴッホが描いた53億円のひまわり

世界にその名を轟かすオランダの画家ゴッホと言えば『ひまわり』が有名ですね!!なぜ暗い絵画ばかり描いていたゴッホが、代表作である『ひまわり』のような鮮やかな色彩の絵を描けたのでしょうか。それは絵の具の進化とゴッホ自身が様々な芸術・画家と関わる事でたどり着いた境地と言えます。

ゴッホが描いた『ひまわり』は全部で7枚。ひとつひとつにゴッホの思いと技術の全てが集約された作品と言っても過言ではありません。ゴッホの生涯、そして7枚の『ひまわり』に秘められた想いを紹介していこうと思います。

ゴッホの最高傑作『7枚のひまわり』

ゴッホは1888〜1889年の間に歴史的名画『ひまわり』を7枚描いています。その前にもひまわりを描いてはいましたが、あまり認知はされておらず、だれもが知る『ひまわり』とは花瓶に挿した構図の作品を指します。これら7枚の作品は全て所有者がわかっていますが、山本顧彌太氏が所有していたひまわりは残念ながら空襲で焼失してしまっています。

しかし日本の損保ジャパン日本興亜美術館で7枚の内の一枚が公開されているので日本国内でもゴッホのひまわりを楽しむ事ができます。

作画年

所蔵者

花の本数

特徴

1888年8月

個人(アメリカ)

3本

緑色の背景に緑色の花瓶を描き、まだ少し色の暗さが見えます。花の形も写実的です。

1888年8月

山本顧彌太(戦災で焼失)

5本

藍色とひまわりの黄色とのコントラストが見事です。

1888年8月

ノイエ・ピナコテーク(ミュンヘン)

12本

薄い水色と黄色い花瓶で一気に印象が明るくなります。

1888年8月

ロンドン・ナショナルギャラリー

15本

背景・花瓶・花全て黄色で、輝くような色彩です。より筆の勢いが強くなっていきます。

1888年11月‐12月

損保ジャパン日本興亜美術館(1987年3月当時のレートで約53億円で落札)

15本

背景・花瓶は黄色ですが、花が茶色に近くなっています。

1889年1月

ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)

15本

花の茶色がより濃いものになっています。筆致がより自由奔放になっていきます。

1889年1月

フィラデルフィア美術館(アメリカ)

12本

ノイエ・ピナコテーク版と同様の色彩です。

現代人の苦しみを体現するひまわり

こうしてみると、『ひまわり』一枚一枚描く度に、ゴッホが向上心を持って工夫を凝らしてきたことがわかります。 ゴッホは、7枚の『ひまわり』を描くにあたって、次第に心の葛藤を表すような激しい筆致になっていきました。その激しさが現代人の苦しみをも体現していると言えましょう。

歴史的名画、ゴッホの『ひまわり』が生まれるまで

ゴッホは、『ひまわり』をはじめ、鮮やかな色で荒々しい点々や線で描いた画風が有名です。ゴッホが「情熱の画家」ともいわれる所以でもあります。しかしこの画風にたどり着くまで、ゴッホは様々な苦難と経験をしていたのです。

暗い絵を描き続けていたゴッホ

ゴッホはその画業の初めの1885年頃、暗い色の絵ばかりを描いていました。当時のゴッホの緻密で暗い色の画面は、ブリュッセル王立美術アカデミーでの受講、写実派のオランダ画家アントン・モーヴの影響だといわれています。彼の絵への情熱は、止まることを知らず、真摯に向き合い、真摯に向き合い過ぎて、写実的で緻密で、暗い色で描いていたのでした。『ジャガイモを食べる人々(1885年)』『古靴(1886年)』では黒や茶色が多用されています。

えっ、これがあの太陽のような明るい『ひまわり』を描いたゴッホの絵?と驚くような絵なのでまだ観た事がない方は是非一度ご覧になってみてください。

ゴッホ、印象派の天才モネと出逢う

暗い色ばかりで絵を描いていたゴッホは1886年、パリで印象派の明るい色彩・・・クロード・モネらの絵画に触れ、衝撃を受けます。モネの光に満ちた明るい色の絵画がゴッホの心を捉えました。モネと言えば色を混ぜることなく、キャンバスに明るい色の絵の具をチューブから直接出して描く厚塗りのスタイルが特徴です。荒いタッチで季節や時間の移り変わりを次々と連作で描き出し、当然輪郭はぼやけ、緻密でアカデミックなこれまでの画家が描いてこなかった画風です。後にゴッホが描いた『ひまわり』の絵の具をチューブから筆で直接キャンバスにのせた描き方は、モネらから学んだといわれています。

チューブ絵の具の発明

それまでの時代、絵の具は画家自身が粉末の顔料と油や卵を混ぜて作っていて保存や持ち運びには向きませんでした。画家は戸外でデッサンをしてからそれを持ち帰って屋内で仕上げていたのです。しかし、この頃チューブ入り絵の具が発明されました。チューブ入りの絵の具を戸外に持って行って油彩画を仕上げることができるようになり、陽光に輝く明るい色を見たままに描く事ができるようになりました。

点描画の魅力に圧倒されたゴッホ

さらに、パリではジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックらの点描画に魅せられます。点描画とは、様々な色の点を重ねて描かれた絵画です。例えると、緑色を表現するのに黄色と青を混ぜずに点と点で表現するという絵でした。つまり「人間の眼の網膜で色を混ぜる」という新しい画法です。『グランドジャット島の日曜日の午後(1884年–1886年)』を近くで見ると、様々な色の点々で構成されているのがわかります。美しい夢のような画面になる効果があります。ゴッホが後に描く『ひまわり』での点々や線を重ねる描き方はここからきています。もっとも、ゴッホの方がはるかに筆の勢いがあります。

なぜ様々な花の種類がある中『ひまわり』を選んだのか

明るい色に目覚めたゴッホ。ひまわりは太陽の光を浴びて美しい色鮮やかな光を放ちます。ゴッホは、様々な人からの影響や、キリスト教精神から、ひまわりを描くようになりました。その理由を4つのポイントでご紹介しましょう。

1.アルルで明るい色の風景に触れたゴッホ

1887年3月、ゴッホはパリで浮世絵に出会い、日本への憧れを強くします。仲良くなったアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックから「南フランス・アルルは日本のような気候」と聞いたゴッホは、翌年の1888年2月、アルルに移り住みます。パリのような北フランスとは違い、ましてや故郷のオランダとはかけ離れたアルルの強烈な陽光に触れて、ますますアルルに魅せられます。ゴッホは友人への手紙の中で「この地方は大気の透明さと明るい色のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み、まるで日本版画に見る風景のようだ」と書いています。当時ゴッホが描いた『アルルの跳ね橋(1888年)』を見ると、明らかに若書きの暗い感じの絵と色彩が違っていますね!!『ひまわり』の鮮やかな色彩は、アルルの陽光に照らされる色とりどりの風景が影響したものでした。

2.フェルメールの黄色に憧れたゴッホ

ゴッホは、オランダのハーグで見たフェルメールの黄色を思い出し「あんな色で描いてみたいものだ」と言っています。 また、弟テオにこのような手紙を書いています。「この太陽、この光、どう言ったらいいのか良い言葉が見つからない。ただ黄色、薄い硫黄の黄色、薄い金色のレモンという他はない。この黄色が実に素晴らしい。ああ、君がいつの日か南フランスの太陽を見て僕と同じように感じてくれたら良いと思う。」後に描かれるゴッホの『ひまわり』の黄色い色への憧れが見て取れます。

3.クローム・イエローの絵の具の発明

この頃、クローム・イエローの絵の具が発売されました。クローム・イエローの絵の具は『ひまわり』の黄色を描くのに打って付けでした。ゴッホは『ひまわり』の絵にクローム・イエローをふんだんに使います。そのほかにも、黄色を使った絵を彼は次々と描きました。『夜のカフェテラス(1888年)』ではその黄色が印象的です。黄色いひまわりを描く伏線になっていると思われます。ちなみに、そのカフェは「カフェ・ヴァン・ゴッホ」として今も現存しています。フランスに行く機会のある人は行ってみてはいかがでしょうか。

4.ひまわりはキリスト教の「神聖な光」

彼が描いた『種まく人(1888年)』は、ジャン=フランソワ・ミレーの作品と、日本の歌川広重の浮世絵から影響を受けたというのは有名な話ですが「種まく」というのは、新約聖書の「神の言葉を世間に広く種まく人」を意味しているといわれています。この種をまいている人の後ろに太陽が描かれていますが、それがまるで神聖な円い光(後光)のようです。アルルの黄色い太陽は、まさに彼にとって神の光だったといわれています。ヨーロッパでひまわりは太陽の神アポロンに恋した妖精にちなんで太陽の花とされてきました。そういうわけで黄色い円光のように咲くひまわり・・・オランダ語でゾネ・ブルーム、英語で言うサン・フラワー、太陽の花・ひまわりは、信心深いゴッホにしてみれば神の光だったのです。

ゴーギャンと出逢いが遂にひまわりを完成させる!

1888年2月「黄色い家」(現存せず)でゴッホは「芸術家の家」構想を閃きました。芸術家たちが共同生活をして、お互い切磋琢磨して傑作が次々と生みだされるような、ユートピアを作ろうとしたのです。ゴッホは、パリで知り合った芸術家たちに皆で共に暮らそうと誘いました。

ゴーギャンへのライバル心

しかし、アルルにやってきたのはゴーギャン一人だけでした。ゴーギャンも、ゴッホの誘いに応じたのは、必ずしもゴッホの理念に共感したわけではなく、金銭的に困っていたためと言われています。ゴッホはこう手紙に書いています。「実はゴーギャンに、仕事上で、ある程度の印象を与えてやろうという自尊心がある。彼が来る前に、一人で出来るだけの仕事をしておきたい・・・」ゴッホはアルルでの鍛錬の成果をゴーギャンに見せつけてやろうと考えます。

ゴーギャン歓迎の意を表して描かれた4枚のひまわり

ゴッホが複数枚『ひまわり』を描いたのはゴーギャンへの歓迎の意味もあったようです。「ゴーギャンが僕のアトリエで一緒に暮らすことを期待して、部屋の装飾を作りたい。それも大きなひまわりばかりで。この計画を実行すれば全体が青と黄で一つのシンフォニーになるだろう。」そういうわけで、ゴッホは次々と『ひまわり』を描きました。 1888年の8月中に4枚のひまわりが生まれました。すごい勢いです。モネの厚塗りと、スーラの点描画を採り入れたゴッホは、独自に荒々しい筆致で描きました。「ひまわりは早く描かないとしぼんでしまうから」ゴッホは手紙の中でこう言っています。それがゴッホの『ひまわり』なのです。

         

尊敬するゴーギャンへ渡そうとして生まれた3枚のひまわり

1888年10月、こうして始まったゴーギャンとの生活でした。ゴッホは『ひまわり』をさらに1枚描き、また、『ゴーギャンの椅子(1888年11月)』という絵を描いています。肘掛け椅子の上には、ロウソクと本が置かれていて、知的なゴーギャンへの敬意を表したと思われます。ゴーギャンへのライバル心もありながら、尊敬もしていたゴッホでした。ちなみに構図は見事に浮世絵の影響を受けています。

しかし、ゴーギャンとは口論ばかりの辛い日々が続きました。幼いころから一途な思いを抱きながら挫折ばかりだったゴッホは、ゴーギャンとの仲違いに、まるで自分を責めるかのように自らの左耳を切り落としてしまいます。1888年12月、ここに至ってゴーギャンはパリへ去り、ゴッホは精神病院に入ります。 ゴッホは、ゴーギャンと悶着があってからも『ひまわり』を描きました。ゴーギャンは、ゴッホとは考えが合いませんでしたが『ひまわり』だけは認めていました。「ゴーギャンが『ひまわり』を欲しがっている。パリにいるゴーギャンに渡したい」という文書が残っています。それが1889年1月以降に描かれた2枚なのです。

ゴッホの壮絶な死

ゴッホが精神病院に入ったのは、近所の人々から「ゴッホは危険人物」「精神病院に入るべき」と、ゴッホ排斥運動が起こったからでもありました。以後ゴッホは精神病院で『星月夜(1889年)』『糸杉(1889年)』『オーヴェルの教会(1890年)』等、後世に残る傑作を次々と制作しましたが、1890年7月27日、オーヴェル=シュル=オワーズ城の近くで、自分の胸をピストルで撃ちました。しかし弾は急所を反れ、すぐには死ねずにベッドの上で苦しみ続けました。駆け付けた弟テオが泣き出すと、ゴッホは、こう言いました。「泣かないでくれ。皆のためにこうしたんだ」2日後、フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホは、亡くなりました。享年37歳でした。

ゴーギャンも『ひまわり』を描いていた!!

後にゴーギャンは南国タヒチへ行き(1891年2月)プリミティヴで迫力ある画風に転じるのですが、その色はまるでゴッホの影響であるかのように、鮮やかでした。もっとも、ゴーギャンは、自分がゴッホの影響を受けたのではなく、ゴッホが自分の影響を受けたのだと言っていますが。 1901年、ゴッホの死から11年後になんと、今度はゴーギャンが『ひまわり』を描きます。かつてゴッホが描いた『ゴーギャンの椅子』と同じような肘掛け椅子にひまわりの束が乗っている絵でした。タヒチではひまわりは咲かないので、ヨーロッパからわざわざ種を取り寄せてまで描いたのです。それは、亡き友人ゴッホへの「返し」だったのでしょう。

筆の速い画家ゴッホ

余談ですが、ゴッホは驚異的に描くのが速い画家でした。わずか10年のその画業で、860枚の油彩を描いたそうです。単純計算で、4日に1枚描き上げた計算になります。これは同時代の画家に比べ驚異的な速さだといわれています。その筆の速さがゴッホの絵画のダイナミックな筆致の理由の一つかもしれません。それ程のペースで描いても、ゴッホが生きている間は、たった1枚しか売れなかったというのは有名な話ですが。

画家

画業

油彩

1年あたりの制作枚数

ゴッホ

10年間

860枚

86枚

ルノワール

55年間

3800枚

約69枚

モネ

61年間

2000枚

約33枚

誰からも必要とされなかったゴッホの生涯

ゴッホは、かつて聖職者を目指していました。しかし、伝道する相手の労働者達に同情するあまり、労働者たちと同じみすぼらしい服装をする等したため、伝道者として相応しくないとして、教会の伝道委員会から除名され、伝道師としての道を断たれてしまいます。牧師の父親からは見放される始末。その他にも、画商の店員、教師を志望するもうまくいかず、失恋もして挫折ばかりの人生・・・。何でも思いつめやりすぎるのがゴッホの失敗の原因でした。

まとめ

ゴッホの技法やなぜゴッホが『ひまわり』を描いたのかについて、ざっと見てきました。 新宿の損保ジャパン日本興亜美術館で美術館へ『ひまわり』を見に行く度に、ゴッホがあれ程憧れた日本に、絵だけがやって来られたと感慨にふけるのは私だけでしょうか。皆さんも、ゴッホの『ひまわり』を見に行ってみてはいかがでしょうか。

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