バスキアの絵をZOZO前澤社長が100億円出しても買いたい理由とは

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  • 最終更新日:2019年08月07日
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バスキアが売れる理由

アートにそれほど詳しくない人でも「バスキア」という名前を聞いたことがあるかもしれません。バスキア作品と言えば、ZOZOTOWNの前澤友作社長や、レオナルド・ディカプリオ、マドンナが所有している絵画として世界的に有名です!!

前澤社長は、2017年、「Untitled(無題)」という作品を1億1050万ドル(当時のレートで約123億円)という信じられないような超高額で落札しました。当時、米国画家の作品としてはオークション史上最高額であったバスキア作品。

なぜこんなに高額なのでしょう?また、その謎めいた生涯も神秘的です。今回は、バスキア作品の魅力や、バスキアに関する様々なエピソードを紹介します。

バスキア作品の落札価格

バスキアの落札価格

ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat)(1960年12月22日~1988年8月12日)は、20世紀における最も重要なアメリカ人アーティストの一人です。生存中から評価され、オークションで彼の作品はどれも高額で落札されるようになりました。死後もその価格はうなぎのぼりです。

超高額バスキア作品

「Untitled “Boxer”」約13億5千万円(2008年当時のレート)バンド、メタリカのドラマー、ラーズ・ウルリッヒ元所有、落札者不明
「Dustheads」約50億1,000万円(2013年当時のレート)落札者不明
「Untitled」約63億円(2016年当時のレート)落札者ZOZOTOWN前澤友作社長
「Cabra」約12億3千万円(2017年当時のレート)オノ・ヨーコ元所有、落札者不明
「Wire」約9,775万円(2017年当時のレート)落札者レオナルド・ディカプリオ
「Untitled」約123億円(2017年当時のレート)落札者ZOZOTOWN前澤友作社長

バスキア作品がいかにセレブたちに愛され、価値のあるものなのか、価格と落札者をご覧いただいたのでなんとなくすごさはご理解いただけたと思います。では実際にバスキア作品とはどのようなものなのか、天才アーティストが100億円を超える価値の絵を完成させるまでに歩んできた道を是非詳しくご覧ください!

 

バスキアとは

バスキアとは

これほどの高値が付くバスキア作品に、どれ程の魅力が詰まっているのでしょう?

彼はハイチとプエルトリコ系にルーツを持つ両親の間に生まれ、1,200点を超えるドローイング、900点以上の絵をその短い生涯で残しています。バスキアはアートに関する正規の教育を受けたことが一度もない本当の「天才」でした。

バスキアの芸術

バスキア 芸術

1970年代後半、ニューヨークのマンハッタンで、ヒップ・ホップやポスト・パンク、スプレー・ペインティング、ストリートアート等が混ざったグラフィティ・アート(壁の落書き)から出発したいわゆる「悪ガキ」の画家です。プリミティヴで原色遣い、グロテスクな画風を特徴とします。

反骨の画家

バスキアは、現代社会問題に対する批評を、詩、ドローイング、絵画などテキストとイメージを織り交ぜながら、抽象的または具象的に描きます。骸骨(または頭蓋骨)を描いた作品で有名です。バスキアは人間の美しさと強さ、そして醜さと弱さをモチーフとし、そしてその深みを骸骨で表現したかったのかもしれません。

当時、ニューヨークでは、ダウンタウンとアップタウンのそれぞれで生活する人々のクラスや職業、収入の違いも、大きく異なっていました。バスキアは、人種差別や植民地主義を批判し、階級闘争を積極的に支援します。彼は「私は描いているとき、芸術については考えません。人生について考えるのです」と言っています。それは、やはり彼のハイチ系アメリカ人というルーツに関連しているのでしょう。

新表現主義とは?

新表現主義の画家とも呼ばれたバスキアですが、新表現主義とはどのようなものなのでしょう?
新表現主義は1970年代後半に最も流行した、現代美術の様式です。ニューペインティング、トランスアバンギャルドとも呼ばれます。新表現主義の画家たちは、アカデミックな抽象表現を踏襲しつつ、暴力や死、性、夢といったイメージを大画面に描き出す芸術行動を繰り広げました。鮮やかな色彩と乱暴で激しい感情的な手法で、具象表現をも手がけました。

新表現主義は、エミール・ノルデ、マックス・ベックマン、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、ジェームズ・アンソール、エドヴァルド・ムンクといった20世紀初頭のドイツ表現主義の作家から影響を受けています。

挑発的二分法

「挑発的二分法」とは、バスキアの芸術にとって切っても切り離せない概念です。「貧乏と金持ち」、「黒人と白人」のように、相反する要素を対比して、言葉では表現し切れない思いを芸術で表現しようとしました。

例えば、作品「Per Capita(一人当たり)」(1981年)で書かれている文字「E PLURIBUS(エ・プルリブス)」とは、ラテン語で、アメリカ合衆国の意味で、その文字の下に州のリストと当時のそれぞれの市民一人当たりの所得を書き出す(アラバマ州7,484ドル、カリフォルニア州10,856ドル・・・)事によって、バスキアは203cmx381cmの大画面で、貧困層と富裕層の不公平を指摘しました。

また、「Irony of the Negro Policeman(黒人警察官のアイロニー)」(1981年)という作品では、アフリカ系アメリカ人が、白人社会によって支配されているというバスキアの考えを表現したものです。黒人の警察官は同じ黒人たちの味方をすべきだが、警察官はまだ白人社会によって作られた制度に従っているので、「黒い肌だが白い仮面を被っている」という事を伝えています。

「Untitled(無題)」(1982年)

バスキア 前澤社長

出典:美術手帖

この作品が、ZOZOTOWNの前澤社長が約123億円で落札した作品です。この衝撃の価格によって、ZOZOの名は一躍世界に響き渡り、前澤社長は、レオナルド・ディカプリオのロサンゼルスの自宅に招待された程です。

青く塗られたキャンバスいっぱいに描かれた、骸骨ともとれる黒い顔は、母親から渡された有名な解剖学書「グレイの解剖学」を読み耽った幼少時代の思い出が反映されていると思われます。183cmx173cmという大画面で凄いインパクトです。

「Untitled(無題)」(1988年)

バスキア作品

ZOZOTOWNの前澤社長が約63億円で落札した作品です。角が生えた悪魔の顔が中央に見られます。オレンジ色や赤をベースに、緑や象牙色、朱色や紺色の絵の具が幾重にも流れていて、美しさと不気味さという相反する要素が見られる、グラフィティ・アート出身のバスキアならではの傑作です。

落札した前澤社長曰く「彼のカルチャーや生き様を理解して、後世にこの作品を受け継いでいくという重要な責任があると思っています」。約239cm×約500cmという、これも巨大な絵です。

「Cabra(山羊)」(1981年–1982年)

バスキア作品

元々オノ・ヨーコが所有していて、後に約12億3千万円で落札された作品です。「Cabra」とは、スペイン語で山羊を意味しますが、この絵は山羊ではなく牡牛を描いた作品とされています。

バスキアはボクシングのモハメド・アリを尊敬していました。アリはベトナム戦争の際、徴兵拒否したため世界チャンピオンをはく奪され、その後復帰したのですが、その時倒した相手が「Bull (牡牛)」で、アリは「Cabra(山羊)」と呼ばれていました。

「Maid from Olympia(オランピアのメイド)」(1982年)

バスキア作品

エドゥアール・マネの有名な絵画「オランピア」に登場する黒人のメイドを、絵の主題とし、真ん中に配置して、周りを木製の枠で囲った作品です。ハイチ系アメリカ人のバスキアにとって、その作品はアフリカの過去の歴史を表し、人種差別に反対したバスキアならではの表現だったように思われます。

絵画の中に描かれている「FEET」「100/49」「27.」といった文字、数字がどのような意味を持つのかはわかっていません。

「Baptism(洗礼)」(1982年)

バスキア作品

激しい線と色が画面を埋め尽くしています。タイトル「洗礼」らしく、左側の人物には確かに天使の輪があるのですが、骸骨ですね。目の見開き方が生々しく、鋭い目つきです。左の天使に対して、右側の人もやはり骸骨です。

天使に対する悪魔でしょうか。挑発的二分法が使われていると思われます。背景は様々な色と、文字とも思える線、魚の鱗を思わせる模様に、不気味さが表れている名作です。

「Anthony Clarke」(1985年)

バスキア作品

黒人の男性が檻の中に閉じ込められています。ここに描かれている男性も、骸骨めいています。バスキアの言葉に「芸術とは言葉では伝えきれない『何か』を伝える術」とあります。まさに、人種差別に断固反対した彼の、声なき声が聞こえてくるようです。虐げられてきた人々の怒りを代弁する作品を描いています。

モデルは、ニューヨーク・マンハッタンで活躍したグラフィティ・アーティスト、アンソニー・クラークと思われます。

「Bombero(消防士)」(1983年)

バスキア作品

カップルがケンカをしているようです。女性が男性のお腹を殴っています。そしてその横にはケンカの火消しをしにきたかのような消防士がいます。消防士は、やはり骸骨です。バスキアにとって、人間の本質として骸骨が基本なんでしょうか。

164.8cm×230.0cmという大画面で、なかなかの迫力です。過激さと繊細さを併せ持った描写が、いかにもバスキアらしいですね。ここでも、争いと和解という、挑発的二分法が採用されています。

「Riding with Death(死と乗馬)」(1988年)

バスキア作品

バスキアの遺作となった作品です。ベージュ色の背景に、少ない色数で地味な色で描かれ、文字なども一切描かれず、往年の派手な絵柄とはまるで違っています。バラバラになった骸骨にまたがる茶色い人間が、ひょろひょろとした線で描かれています。

レオナルド・ダ・ヴィンチやデューラーを参考にしたという指摘もありますが、エイズで亡くなる業界人もたくさんいたこの時代、この頃には、バスキアも薬物中毒で様々な症状が出始めていました。もはや死を覚悟していたのでしょうか、死への不安が溢れています。

バスキア謎の私生活

バスキア謎の私生活

バスキアは27年という短い生涯を駆け抜けました。その謎めいた生涯についてご紹介しましょう。

生い立ち

1960年12月22日、ハイチ出身の会計士の父とプエルトリコ出身の母の間に、ジャン=ミシェル・バスキアは誕生し、ニューヨーク・ブルックリンで育ちます。母親は、バスキアが幼いころから、地元のブルックリン美術館によく連れて行ったといいます。

バスキアの父曰く「彼はいつも驚くべき才能を持っていた。彼は3歳か4歳の時から、彼の人生のすべてを描いていた」。ヒッチコックの映画、自動車、漫画、そしてマッド・マガジン(アメリカの風刺漫画)に影響された絵を描き続けていました。

人生の転機「グレイの解剖学」

1968年5月、ストリートでボール遊びをしている時に、自動車事故に遭い、重傷を負って、1ヶ月入院しました。その時母から「グレイの解剖学」という有名な人体の解剖学書を渡されました。この本は、後年の彼のアートに大きな影響を与えます。彼の絵の中に、蓋骨がモチーフとして多く取り込まれているのは、この本が影響しているといわれています。

同年父母が離婚。バスキアと妹二人は父親に引き取られます。

不良少年

1975年、14歳の時、バスキアは初めての家出をします。父は「彼は服従することが嫌い。いつも問題ばかり起こしていた」回想しています。バスキアが父親からの精神的・肉体的な暴力に耐えられなくなり、家を出たという説もあります。

1976年、ブルックリンの高校から、問題児ための学校、City-As-Schoolへ転校します。親友の卒業式で、校長の頭にシェービングクリーム入りの箱をぶつけるトラブルを起こします。あと1年で卒業できるのを待たず中退してしまいました。

一人暮らし

同年12月 バスキアは再び家出します。2週間、グリニッジビレッジのワシントンスクエアパークでぶらぶらしていました。親友アル・ディアスと「セイモ”SAMO”」というユニット名で、ストリートでのスプレーペインティング三昧の日々でした。その頃の経験が、後のバスキアの傑作に結び付きます。「SAMO」とは「Same Old Shit」の略で、「古き良き」や「いつもと同じ」という意味だといわれています。

1978年、17歳の時、バスキアは実家から独立します。水を得た魚のごとく、交友関係を深め、様々な友人の家を泊まり歩きます。

家中のあらゆる者に絵を描く

バスキアのグループは「ベイビー群団(Baby Crowd)」と呼ばれるようになっていて、ナイトクラブの常連でした。彼はハンドメイドのポストカードとTシャツを売って、わずかな生活費を稼いでいました。

バスキアは生物学者アレクシス・アドラーと付き合い、二人一緒にダウンタウンの友人の家に泊まっていました。友人は、「バスキアは、冷蔵庫、段ボール箱、研究室用コートなど、家中のあらゆる者に絵を描いてしまった」と言っています。

マッド・クラブ

やがて、バスキアと恋人のアドラーは、イーストビレッジの小さなエレベーターの無い6階建てのアパートに移ります。そして、彼は映画関係、ミュージシャン、アーティスト仲間と、新しいダウンタウンのスポット「マッド・クラブ」や「クラブ57」等の常連になります。

バスキアは「マッド・クラブ」のダンサーだったマドンナとも付き合っていました。「マッド・クラブ」には、アンディ・ウォーホル、デビッド・ボウイ等も出入りしていました。

ハーベイ・ラッサックに認められる

バスキアは昼の間はブロードウェイ718番地の芸術地区にあるユニーク・クロシング社の倉庫で働き、夜になると近隣の建物にグラフィティ作品を制作して過ごしていました。

ある夜、ユニーク・クロシングの社長ハーベイ・ラッサックが建物に絵を描いている途中のバスキアに偶然出会います。ハーベイはバスキアの絵を気に入り、生活費を支えるために仕事を依頼するようになります。

バンド活動

1979年、18歳の時、バスキアはグレン・オブライエン司会のTV番組「TV Party」に出演し、それがきっかけで二人は親交をはじめ、以後、バスキアは彼の番組に数年間定期的に出演するようになります。

また、この頃、バスキアはノイズ・ロック・バンド「Gray」を結成し、主にアレーン・シュロス広場で活動していました。「Gray」は「マックスズ・カンザス・シティ」や「CBGB」、「ハレイ」等のナイトクラブで演奏をするようになります。

キース・へリングとの出逢い

同年、ニューヨークの有名な美術学校スクール・オブ・ビジュアル・アーツの特待生であるキース・へリングと出会います。彼もストリート・アートで一世を風靡し、地下鉄の駅の壁を初め、あらゆる場所にドローイングし、当時最も脂ののった時期でした。

「崇高なモノだけがアート作品ではない」へリングのアートに対する考え方です。バスキアは、へリングに、同じグラフィティ・アート出身者として大いに共感と刺激を受けました。へリングは後にバスキアが個展を開くのを援助しています。

初めての展示会

バスキアが初めて公的な展示会に参加したのは、1980年にニューヨーク7番街の空き家で開催されたグループ展「タイム・スクエア・ショー」です。このグループ展では他に、デイビット・ハモンズ、ジェニー・ホルツァーらが参加していて、この展覧会がさまざまな美術批評家や学芸員の目に留まるようになりました。

特にイタリア人美術商エミリオ・マッツォーリがこの展覧会でバスキアの作品に感動し、1981年、バスキアをイタリアに招待して、最初の国際的な個展を開催しました。

アンディ・ウォーホルとの出逢い

1980年、19歳の時、映画プロデューサーから、ウォーホルを紹介されます。

1983年8月、バスキアは、ウォーホルが所有するビル(57 Great Jones Street)に引っ越します。以降このスタジオがバスキアの仕事場であり、生活の場となります。二人は一緒に仕事をし、肖像画を描き合ったり、アートイベントに出席したり、人生や芸術の哲学について定期的に語り合って、お互い刺激し合う関係が続きました。

画廊との契約

1981年9月に、バスキアはアニーナ・ノセイ・ギャラリーと契約を交わし、1982年3月6日から4月1日まで開催される同ギャラリーでの米国初個展に向け、ギャラリー内で制作を行い、個展は大成功を収めます。この個展は、イタリア・スイス・オランダ等に巡回しました。

この頃までにバスキアは、新表現主義と呼ばれるアーティストたちと作品を定期的に展示するようになっていました。主なメンバーは、ジュリアン・シュナーベル、デイビット・サル、フランチェスコ・クレモント、エンツォ・クッキらです。

評価の高まり

1981年12月、20歳の時、現代美術誌「アートフォーラム」に、ルネ・リチャードの記事、「光り輝く子供」 が掲載されるとたちまち世界中でバスキアが注目されるようになります。

1985年、24歳の時、NYタイムズマガジンの表紙に登場します。さらにスイス、ニューヨーク、東京で個展を開催。1987年には、フランスで個展。1988年、ニューヨーク、フランス、ドイツで個展を開催します。

高額売買

1984年、23歳の時、オークションで、「Untitled “Skull”(頭蓋骨)」が19,000ドル(約212万円)で落札されました。前年度に4,000ドルの価格で購入された作品でした。以後、バスキアの絵画が次々と高額で取り引きされるようになります。

バスキアはアーティストとして、スターの座に登りつめ、絶大な人気と栄誉の真っただ中に放り込まれます。まさにその活動は順風満帆に見えました。しかし、その栄光は長くは続かなかったのです。

ウォーホルとの破局

ウォーホルとバスキアの仕事の成果は、1985年の合作展覧会で頂点を迎えるはずでした。二人が並んでボクサー姿で写っているポスターは有名です。また、「Olympic Rings」という作品では、ウォーホルがオリンピックの輪を、バスキアが黒い顔を描きました。

しかし、合作展覧会は批評家たちからは酷評されました。ショックを受けたバスキアは、ウォーホルのもとを去ってしまいます。

 

薬物依存症に

そしてその酷評に耐えられなかったのか、バスキアは、ヘロインなどの薬物に手を染めるようになります。顔に吹き出物が目立つようになったり、妄想癖が見られるようになったり、どんどん健康が蝕まれていきます。

皮肉なことに、作品が売れるようになったため、画商から膨大な数の作品の提出を要求されるようになり、バスキアは落ち着いて芸術に取り組めなくなります。その事も、バスキアの生活の破綻に拍車を掛けました。

ウォーホル逝去

1987年2月22日、ウォーホルが亡くなります。ウォーホルとバスキアは、親子ほどに年が離れていたのですが、実際彼らは実の親子のように思い合っていたのです。その仲が破局したとはいえ、お互いにリスペクトし合っていました。ウォーホルがバスキアの肖像をプリントした版画が残っています。バスキアは、ウォーホルの死のショックによりますます生活が荒れていきます。

バスキア死す

「なぜ、本に描いてあるのは白人ばかりなのだろう?」生涯疑問を抱き続けたバスキアは、自らをジョークで「ブラック・ピカソ」と呼び、「Riding-with-death(死と乗馬)」を描き上げた一週間後、1988年8月12日、スタジオで死亡しているのが発見されます。死因は薬物過剰摂取によるものでした。享年27歳。

バスキアが亡くなったマンハッタンのスタジオの壁には、2016年7月13日、バスキアの人生を称える記念碑が設置されました。

バスキアのエピソード集

バスキアエピソード集

天才画家バスキアは、数々のエピソードに彩られています。その天才ぶり、異才ぶりを幾つかをご紹介しましょう。

バスキアとアルマーニスーツ

バスキアは、高価なアルマーニのスーツ姿で絵を描いたという逸話があります。絵画制作の際、絵の具がスーツに付いても気にしていないようだったという事です。デザイナーのジョルジオ・アルマーニは「彼が私のスーツを制作の時も着ていたことはとても嬉しい。アルマーニの服は普段の生活の中で動きやすくデザインしているからね」と言ったといいます。

バスキア、ファッションモデルに

1987年にはコム・デ・ギャルソンのコレクションでモデルを務めたこともありました。その時に彼が身にまとった2着のグレイのスーツはどちらもオーバーサイズで、他の人が着たら馬鹿げた着こなしにしか見えなかったかもしれませんが、バスキアが着るとエレガントに見えたといいます。彼がドレッドヘアでランウェイを歩く写真が残っています。

モチーフの謎

バスキアが、頭蓋骨をモチーフに描き続けたのは、「グレイの解剖学」の影響の他に、ブードゥー教からの影響があったという説があります。頭蓋骨はブードゥー教のシンボルであり、またハイチ人であったバスキアの父が信仰していた宗教でした。他に、ヘンリー・ドレイフスの「シンボル事典」、ダ・ヴィンチのメモ帳などにも影響を受けているといわれています。

バスキアの制作方法

バスキアは早描きでも知られていました。毎日、壁に10作品ぐらい立てかけて、二、三日寝ないで次々に仕上げていったという事です。バスキアは絶えず絵を描いていて、紙が手元にないときは、しばしば周囲にある適当なものに直接描いていました。彼はいつもテレビをみたり、音楽を聴いたりしながら、雑誌や本を広げ、それらから得た情報を作品の中に取り入れたといいます。

王冠の意味

バスキアは、モチーフに王冠を描いたことでも有名です。王冠は、メインストリームが見ようともしない、黒人の偉大な人たちに王冠を自分が捧げる、という意味が込められていたそうです。また、自分がナンバー1になりたかったからという説もあります。子供の頃、父親に「パパ、僕はきっと、すっごく有名になるよ」と言ったそうです。

成功の陰で

ある黒人ヒップホップアーティストはバスキアについて回想しています。「黒人ゆえ、彼はいつもアウトサイダーだった。コンコルドには乗れても、イエローキャブ(タクシー)は止められないだろう」。それ程に当時のタクシードライバーが人種で客の選り好みをしていたという意味で、人種差別が酷かったという事です。

時代背景

バスキアが活躍した1970年~1980年代は、音楽界では、ロッド・スチュワート、マイケル・ジャクソン、マドンナが流行しました。映画界ではジョーズ、ロッキー、E.T.、バック・トゥ・ザ・フューチャーと、アメリカの文化は成熟し世界を席巻しました。美術界では、第二次世界大戦後に、ロイ・リキテンスタインに、ジャスパー・ジョーンズやアンディ・ウォーホル等のスター作家が現れ、全盛期を迎え、世界に影響を与えました。

バスキアが受け入れられたのは

一方で社会では、米露冷戦、ニクソン政権のウォーターゲート事件、オイルショックと不穏な時代が続き、ドラッグが蔓延しました。そんな時代に受け入れられたのが、ニューヨークで、スプレーやフェルトペンなどを用いて建物の壁や電車などへの落書きから始まったとされるグラフィティ・アートだったのです。グラフィティの彼らは、1980年代に前衛芸術家として持て囃されるようになりました。

バスキア映画化

彼の生涯が「バスキア」として1996年にアメリカで映画化されました。監督はジュリアン・シュナーベルで、ジェフリー・ライトがバスキアを、ウォーホルをデヴィッド・ボウイが演じています。

また、「バスキアのすべて」ドキュメンタリーフィルム(監督・バスキアの友人タムラ・デイビス)が2010年12月、日本で公開されました。機会があったら、観てみて下さい。

まとめ

バスキアの芸術と生涯をみてきました。バスキアが亡くなって、人気は高まるばかりです。作品の価格もキャンバスの作品は数千万から数百億円、普通の人には手が出せません。

彼の作品を見ていると、1970年~1980年代のアート・シーンの華やかな世界の中で、常に人種差別や階級闘争と向き合った、人間バスキアの苦悩する魂の叫びが聞こえるように思えます。また、バスキアは、日本にも縁があり、バブル景気の日本を反映したモチーフや、ひらがなを作品に取り入れ、度々来日して個展を開催しました。

「バスキア展 メイド・イン・ジャパン」が2019年9月21日〜11月17日に森アーツセンターギャラリーで開催されます。バスキア作品の本物を見たい人は、ぜひご覧になって下さい。

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